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ハインリヒ1世

東フランク王(実質的ドイツ王)。有力諸侯から選出されザクセン朝初代の王となる。マジャール人を撃退、他の諸侯より優位に立ち、ドイツ国家の第一歩となる。

 東フランク王国(ドイツ王国)のザクセン朝初代王。在位919~936年。捕鳥王、都市建設王というあだ名を持つ。なお、「東フランク王国」の名称は、その前の911年に成立したフランケン朝から、実質的にドイツ王国とする。厳密にはドイツ王国という名称が一般化するのは12世紀であるが、一般にコンラート1世即位からドイツ王国とされる。特にハインリヒ1世はフランク人ではないので、この即位から実質的にフランク王国ではなく、ドイツ王国となったと言える。
 また、ハインリヒ1世は現在の高校世界史では取り上げられず、用語集にもかつては取り上げられていたが、現在は見られない。なので、受験のレベルでは憶えておく必要はないが、ドイツという国家の成り立ちを理解する上では必要な情報なので、参考のために取り上げた。

ザクセン朝(ドイツ)初代

 東フランク王国(ドイツ)ではフランク系のカロリング朝が断絶し、911年にフランケン朝コンラート1世が即位したが、フランク人以外にもザクセン、バイエルン、シュヴァーベンなど有力諸侯(伯や辺境伯)が分国として存在し、同時に東方からのマジャール人や北方からのノルマン人の侵攻も始まり、王権は弱かった。
 919年にコンラート1世は病死、王位継承者に指名されたザクセン家のハインリヒ1世が、フランク・ザクセンの両部族から選ばれてドイツ王位を継承しザクセン朝となった。しかし、同じゲルマン系でもバイエルンやシュヴァーベンはそれを認めていなかったので、ハインリヒ1世の王権は即位当初は限定的であった。ハインリヒ1世にはエルベ川流域のスラヴ人居住区への進出をめざしたが、同時に東方からのマジャール人や北方からのノルマン人の侵攻から国土を守るという課題も与えられた。

ドイツ国家の成立

 ハインリヒ1世はまず、王位を認めなかったバイエルン・シュヴァーベンの有力諸侯(分国)に対しては一定の自治を与える妥協をしたうえで王位に服従させ(大公領とする)、東方国境のスラヴ人地区にマクデブルクなどの城塞都市を建設して国土防衛にあたり、933年にマジャール人の侵入を撃退した。またシュレスヴィヒに辺境領(マルク)をおいてノルマン人に備えた。
 ハインリヒ1世は921年、西フランク王シャルル3世とライン川上で会見し、ハインリヒのドイツ王位を承認させた。さらに925年には西フランク王国内部の諸侯対立を利用してロートリンゲン(ロレーヌ)公領をドイツに奪い返した(ロートリンゲンはフランク族の源郷であったので、コンラート1世の王位を認めず、西フランクに帰属していた)。

選挙王制と世襲制を一体化

 ドイツにおける国王選挙は、ザクセン朝のハインリヒ1世からとされているが、正確にはわかっていない。「選挙」といえるような手つづきがどれほど整っていたがはわからないが、ハインリヒ1世の時から「国王は有力者の合意による」というコンセンサスは出来ていたと思われる。
(引用)ザクセン朝初代のハインリヒ1世の例で見ると、彼は919年に前王コンラート1世の遺言を受け、当代ザクセンとフランケンの二分国だけの支持で国王に推戴された。そのためバイエルン公が独自に「国王」を称する、といった事態も生じたのだが、ハインリヒはこの難局を諸分国の有力者たちとの協調路線で――一部武力も行使したが――乗り切った彼は、長子オットーを後継者にするために、国内を巡行するなどしてあらかじめ諸分国の支配者たちの同意をとりつけたのである。彼は同時に王位単独相続の原則をも打ち立て、王国の不分割継承への道も開いたのだった。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 p.29>
※後の神聖ローマ皇帝も、「形式的な選挙と実質的な世襲」が組合わされた固帝位継承が行われる。 → 選挙王制

オットー1世に継承

 ハインリヒ1世からドイツ王位を継承したその子のオットー1世は、955年、マジャール人を最終的に撃退し、962年にローマ教皇よりローマ皇帝の戴冠を実現し、このオットーの戴冠が、神聖ローマ帝国の起源とされている。
 なおグレゴリウス7世聖職叙任権を争った神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(在位1056~1106、)はザーリアー朝の皇帝でハインリヒ1世との系譜関係はない。
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