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東フランク

フランク王国が分裂して生まれた国。後のドイツ。

東フランクはヴェルダン条約で、ルートヴィヒの領地として成立したライン川以東の地。後のドイツのもととなった。メルセン条約で中部フランクの東半分を加える。911年、カロリング朝の王統が途絶え、ドイツ王国となる。ドイツ王国初代の国王は選挙によってフランケン家のコンラート1世(911~918)、次いで前王の指名でザクセン家のハインリヒ1世がザクセン朝を開始、その子オットー1世が継承した。オットー1世は962年にローマ帝国皇帝の冠をさずかり(オットーの戴冠)、初代の神聖ローマ帝国皇帝となった。それが「神聖ローマ帝国」の起源とされている。以後、ドイツ王が神聖ローマ帝国皇帝となることが続いたが、同時に皇帝はローマにおもむいて教皇から皇帝の冠を受けることが必要となり、皇帝はドイツを離れることが多くなった。そのため、ドイツ国内では封建諸侯の力が強くなり、皇帝位は有力諸侯の選挙で決められることが多くなり、13世紀以降は完全な選挙制となる。ザクセン朝が絶えた後、選挙によってフランケン公領のザリエル朝(1024~1125年、カノッサの屈辱の時のハインリヒ4世など)、シュヴァーヴェン大公領のシュタウフェン朝(1138~1254年)と交替し、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世(在位1212~50年)の時に皇帝権は絶頂期を迎えたが、彼はドイツにほとんど滞在せず、シチリア王を兼ねてパレルモで王宮を営み、地中海帝国の再興をもくろんでいた。そのため東フランク(ドイツの地)では領邦君主たちの領域支配が強まり、フリードリヒ2世の死後は領邦君主が競合したため皇帝を選出できず、1254年から1273年の大空位時代となった。その後、皇帝選挙は復活したが、1356年のルクセンブルク朝カール4世(ベーメン王などを兼ねる)の時に定められた金印勅書によって領邦の分権化が確定する。その後もドイツは大小数百の領邦君主領に分裂したまま続き、実質的なドイツという統一国家は存在しなかった。神聖ローマ皇帝位はその後、ハプスブルク家が独占的に継承することとなり、16世紀からは正式国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」といわれるようになる。ドイツが地理的な一つの領土を持つ国家となるのは、主権国家として1871年の「ドイツ帝国」の成立によってである。
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第6章1節 カ.分裂するフランク王国