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オットーの戴冠

東フランクのオットー1世がローマ教皇よりローマ皇帝の冠を戴く。これが「神聖ローマ帝国」の紀元とされている。

 962年、ローマ教皇ヨハネス12世がローマのサン=ピエトロ教会において、ドイツ王・イタリア王であるオットー1世に対し、ローマ帝国皇帝の冠を授けたこと。これによって神聖ローマ帝国が始まったとされる。かつての「カールの戴冠」の再現であり、ローマ=カトリック教会の保護者としての皇帝位を復活させたものであった。以後、ドイツ王・イタリア王(後にブルゴーニュ王も含む)を兼ねる者が代々、ローマに行って神聖ローマ帝国皇帝の冠を教皇から受けるのが伝統となる。(実際に神聖ローマ帝国という名称が定着するのは13世紀からである)

Episode オットーの戴冠をめぐるドラマ

 オットー1世にローマ帝国皇帝の冠を授けたローマ教皇のヨハネス12世(在位955~965)は、受験世界史では全く覚える必要もないが、ローマ教皇としては類を見ない「無頼漢」といわれている興味深い人物ので、触れておく。
(引用)オットー大帝を戴冠し、ついで皇帝を裏切ることによって追放され、最後には姦通した妻の夫に撲り殺されるという、法王座における稀代の無頼漢、ヨハネス12世の後には、彼に比較されうる悪徳の法王はもうみられない。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.88、再版2013 中公文庫>
 どういうことかというと、当時ローマ教皇の位はローマの実力者アルベリゴ2世という人物に握られていた。死期が近づいたアルベリゴは教皇アガペトゥス2世らを呼び、自分の私生児であるオクタヴィアヌスを次の教皇に選ぶことと遺言として死んだ。955年、わずか18歳のオクタヴィアヌスがローマ教皇ヨハネス12世として即位した。彼は私生活でもスキャンダルの多い人物で、教皇の座についてからも色欲に溺れ、ラテラノ宮殿は公然と売春宿呼ばわりされるありさまだった。962年2月2日、北イタリアを平定したオットー1世に対して、ヨハネス12世は西ローマ帝国皇帝の冠を授けたのだった。
 新皇帝オットー1世はよろこんでイタリアの大部分を教皇領とすることを認め、イタリア王ベレンガリオを攻撃するためローマを出た。留守中、ヨハネス12世がベレンガリオの息子と陰謀をめぐらし手いることを知って激怒したオットー1世は、ヨハネス12世を廃位し、レオ8世を新教皇に選んだ。ローマではヨハネス支持派が暴動を起こし、一時教皇位に返り咲いたが、964年、27歳で脳卒中で倒れて死んだ。女と密通中に急死したのは頭を悪魔に一撃されたからだ、といううわさが立ったという。<マックスウエルースチュアート『ローマ教皇歴代誌』創元社 p.94-95>  この『ローマ教皇歴代誌』を見ると、この前後の教皇には、「絞殺された」とか「撲殺された」などが頻繁に出てくる。権威はなど全く感じられない、ローマ教皇の堕落した時代だったことがよく分かる。この状態からの脱却を目指したのがクリュニー修道院修道院運動であり、グレゴリウス7世グレゴリウス改革聖職叙任権闘争だったのだ。
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ノートの参照
第6章1節 カ.分裂するフランク王国