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オットーの戴冠

東フランクのオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世よりローマ皇帝の冠を戴く。これが「神聖ローマ帝国」の起源とされている。

 962年、ドイツ王・イタリア王であるオットー1世は、ローマのサン=ピエトロ教会において、ローマ教皇ヨハネス12世から、ローマ帝国皇帝の冠を授けられた。これによってオットーの治める国家は、神聖ローマ帝国といわれることとになったとされている。800年のフランク王国カール大帝の、「カールの戴冠」の再現であり、ローマ=カトリック教会の保護者としてのローマ皇帝位を復活させたものであった。以後、ドイツ王・イタリア王(後にブルゴーニュ王も含む)を兼ねる者が代々、ローマに行って神聖ローマ帝国皇帝の冠を教皇から受けるのが伝統となる。
 このオットーの戴冠は、ドイツ王・イタリア王であるオットーが、ローマ皇帝権を獲得したことによって、ドイツとイタリアを支配する「神聖ローマ帝国」が成立した(実際に神聖ローマ帝国という名称が定着するのは13世紀からであるが、)ことを意味しており、中世ヨーロッパの歴史では重要な出来事であった。オットーは苦労人(962年にかけてこう覚えるのが良いだろう)だったかはさておき、これを機に「大帝」といわれることとなる。
 カールの戴冠の背景には、帝冠を授けたローマ教皇レオ3世には、東方教会(=ビザンツ教会、ギリシア正教会)と対抗しているローマ=カトリック教会の後ろ盾を得ようとする意図があったが、オットーの戴冠の場合の西ローマ教皇ヨハネス12世には、どのような意図があったのだろうか。また、ヨハネス12世とはどのような教皇だったのだろうか。高校世界史では説明されることはないが、この人物は教皇としてはとんでもない人だったようだ。

ローマ教皇ヨハネス12世

 オットー1世に西ローマ帝国皇帝の冠を授けたローマ教皇のヨハネス12世(在位955~965)は、受験世界史では全く覚える必要もない(用語集にはオットーに帝冠を授けた教皇として出てくる)。歴代のローマ教皇のなかで変な人や悪い奴もたくさんいたが、そのなかでもずばぬけて教皇らしからぬ人物であり、「無頼漢」とさえいわれているのがこのヨハネス12世だ。それだけ興味深い人物であるし、その人物像を知ることによって世界史にけるローマ教皇の本質も見えてくると思われるので触れておく。
(引用)オットー大帝を戴冠し、ついで皇帝を裏切ることによって追放され、最後には姦通した妻の夫に撲り殺されるという、法王座における稀代の無頼漢、ヨハネス12世の後には、彼に比較されうる悪徳の法王はもうみられない。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.88、再版2013 中公文庫>

Episode 18歳で教皇になり、色欲に溺れ、27歳で死ぬ

 どういうことかというと、当時ローマ教皇の位はローマの実力者アルベリゴ2世という人物に握られていた。死期が近づいたアルベリゴは教皇アガペトゥス2世らを呼び、自分の私生児であるオクタヴィアヌスを次の教皇に選ぶことと遺言として死んだ。955年、わずか18歳のオクタヴィアヌスがローマ教皇ヨハネス12世として即位した。しかし彼は私生活でもスキャンダルの多い人物で、教皇の座についてからも色欲に溺れ、ラテラノ宮殿は公然と売春宿呼ばわりされるありさまだった。それでも教皇に対する評価は落ちることはなかったが、政治情勢はきわめて不安定にならざるを得なかった。ヨハネス12世は西ローマ帝国の帝冠と引き替えに、オットー1世のたすけを求めざるを得なかった。その求めに応じてオットーは北イタリアの秩序を素早く取り戻し、962年2月2日、その返礼として、西ローマ帝国皇帝の冠を授けられたのだった。
 新皇帝オットー1世はよろこんでイタリアの大部分を教皇領とすることを認め、イタリア王ベレンガリオを攻撃するためローマを出た。ところが留守中、ヨハネス12世がベレンガリオの息子と陰謀をめぐらしていることを知って激怒したオットー1世は、ヨハネス12世を廃位し、レオ8世を新教皇に任命した。ローマではヨハネス支持派が暴動を起こし、一時教皇位に返り咲いたが、964年、27歳で脳卒中で倒れて死んだ。女と密通中に急死したのは頭を悪魔に一撃されたからだ、といううわさが立ったという。<マックスウエルースチュアート/高橋正男監修『ローマ教皇歴代誌』1999 創元社 p.94-95>
 この『ローマ教皇歴代誌』を見ると、この前後の教皇には、「絞殺された」とか「撲殺された」などが頻繁に出てくる。権威はなど全く感じられない、ローマ教皇の堕落した時代(ローマ教皇庁の暗黒時代、鉄の時代とも言われる)だったことがよく分かる。そしてオットー大帝は、教皇以下の聖職者の任免を皇帝が仕切る帝国教会政策によって帝国を治めていこうとする。
 この状態からの脱却を目指したのがクリュニー修道院修道院運動であり、グレゴリウス7世グレゴリウス改革聖職叙任権闘争だったのだ。
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ノートの参照
第6章1節 カ.分裂するフランク王国
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マックスウエルースチュアート/高橋正男監修
『ローマ教皇歴代誌』
1999 創元社