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聖職叙任権/叙任権闘争

ヨーロッパ中世ではローマ=カトリック教会の聖職者を任免する聖職叙任権は、神聖ローマ皇帝以下の国王・領主ら世俗の権力が持っていたのに対し、11~12世紀にカトリック教会改革運動の一環として、ローマ教皇がその権利を得ようとして皇帝と争ったのが聖職叙任権闘争である。

 ローマ=カトリック教会の大司教・司教・修道院長など高位聖職者の任免権は、世俗の権力である神聖ローマ皇帝が有し、下位聖職者任免権もイギリス、フランスなどの国王や領主ににぎられていた。それに対して、そのような俗権による支配が教会堕落の原因であると自覚したカトリックの改革派出身のローマ教皇によって、11~12世紀にかけて聖職者叙任権を教皇以下教会の手に脱会する運動が進められた。それが叙任権闘争といわれる歴史的な動きであり、教皇と皇帝の政治的な対立にまで深刻化し、中世ヨーロッパの動きに重大な影響を与えた。この闘争は1077年の「カノッサの屈辱」事件をピークとして、ほぼ教皇側の勝利と成り、圧倒的な力を得たローマ教皇の指導の下で1095年、十字軍運動が始まり、1122年、ヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めて叙任権闘争は終わりを告げることになる。

皇帝の持つ聖職者叙任権

 ヨーロッパ世界が、キリスト教信仰であまねく覆われていた中世において、ローマ=カトリック教会ローマ教皇を頂点として、その下に大司教・司教・司祭、修道院長などの階層制組織(ヒエラルキア)が成立していた。
 ローマ教皇神聖ローマ皇帝の戴冠を行ってその権威を保障し、イギリスやフランスの教会はそれぞれ国王を塗油することによって聖なる存在として権威を与えていた。しかし、教皇や教会は皇帝、国王あるいは諸侯の任免権は持ってはいなかった。逆に、皇帝や国王は教皇選出に干渉し、大司教・司教・修道院長などの高位聖職者の任免権は皇帝が有し、国王・諸侯などのも域内の聖職者の任免権を有していた。中世ヨーロッパのカトリック教会の聖職者叙任権は世俗の権力に握られていた。
 特に神聖ローマ帝国では、オットー1世(大帝)以来、帝国教会政策をとり、帝国内の教会は皇帝に服すべきものとしてその聖職者を皇帝が任免し、官僚化を進めていた。また他の世俗の諸侯も、自分の領内の教会を「私教会」として聖職の任免権を行使した。ローマ教会は教会法に基づき、帝国教会政策や私教会を否認したが、事実上、聖職叙任権は皇帝や国王、諸侯らの世俗権力に握られることとなっていた。その結果、俗人が聖職者に任用され、聖職者の地位が金銭で売買される聖職売買されたり、妻帯者が聖職に就くことが一般化し、いわゆる教会の腐敗堕落がすすみ、その権威が著しく低下してきた。

叙任権闘争

 10世紀に教会側に改革運動が盛り上がり、聖職者の叙任権は教会(とその頂点の教皇)がもつべきであるという考えた起こってきた。それは聖職者の腐敗の一つである聖職売買が、聖職叙任権が世俗の権力に握られているために起こると考えられたからだ。特にクリュニー修道院を中心とした改革派は強くそのことを主張するようになった。聖職叙任権を重要な権力の行使と考えている世俗の政治権力(その頂点が神聖ローマ皇帝)側は、それを手放すことは認められないことなので、この対立は中世ヨーロッパの政治的対立軸となっていく。

叙任権奪回を目指す教皇

 1049年に教皇となったレオ9世は、教皇庁を修道院運動の中心であったクリュニー修道院出身の改革派(後のグレゴリー7世も含む)で固め、自ら宗教会議をランスで開催し(皇帝主催ではなく)、聖職売買と聖職者の結婚の禁止と、禁を犯した聖職者の追放を決議した。彼の死後、改革派は1059年に教皇選挙法を定め、教皇は直属の諮問機関である枢機卿会議で選出されるべきものとして、俗権の介入を排除しようとした。

カノッサの屈辱

 さらに1075年、同じくクリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は皇帝以下の俗人の聖職叙任権を否定、それを拒否した神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世破門し、聖職叙任権闘争が開始された。1077年、「カノッサの屈辱」事件以後、両者の対立は武力衝突を引き起こし、激しく対立、形勢は一進一退した。

十字軍運動と教皇権の確立

 1095年、グレゴリウス7世の後継者ウルバヌス2世十字軍運動を提唱し、西ヨーロッパの主導権を握ると一挙に教皇側に有利に展開するようになり、ハインリッヒ4世の子ハインリッヒ5世は一転して教皇側と妥協、1122年、両者の間でヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めることによって叙任権闘争は終わりを告げた。
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ノートの参照
5章1節 ケ.教会の権威