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ハインリヒ4世

神聖ローマ皇帝。叙任権闘争でローマ教皇グレゴリウス7世と争い、1077年に破門されたため教皇の許しを請う「カノッサの屈辱」の出来事となった。

 神聖ローマ帝国のザリエル朝の皇帝でドイツ王を兼ねた。1054年、父のハインリヒ3世の急死により、後継として神聖ローマ皇帝となったのは、わずか6歳だった。15歳で親政を開始したが、ドイツ・イタリア・ブルグンド(北フランス)の広大な領土では有力な貴族=封建領主の中に不穏な動きが続き、困難な統治が続いた。

教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争

 ハインリヒ4世は、オットー大帝以来の帝国教会政策を維持して領内の司教などの聖職者の任命権を行使し、教会を通じての統治を続けていた。それにたちはだかったのが、1073年にローマ教皇となった改革派のグレゴリウス7世であった。かねて聖職売買などの腐敗の原因は、世俗の権力が聖職者の叙任権を持って行使しているからであると考えていたグレゴリウス7世は、1075年、俗人による聖職叙任の禁止を決定し、ハインリヒに通告してきた。23歳の成年になっていたハインリヒ4世は全面的な対決を決意、ただちにドイツの司教たちを集めて反撃し、グレゴリウス7世が不正な方法で教皇に即位したとしてその無効を宣言し、対抗する教皇を選出した。それに対し、グレゴリウス7世はハインリヒに対し破門を通告してきた。ハインリヒが破門されたことを知った封建領主たちは、機会が到来したとして反乱を起こし、ハインリヒは大きな危機に陥った。

カノッサの屈辱

 窮地に立ったハインリヒは、やむなく教皇にわびを入れ、破門を解いてもらおうとして、1077年の2月、北イタリアのカノッサに滞在中のグレゴリウス7世を訪ねた。教皇は面会を拒否したので、ハインリヒは3日3晩、雪のふる中でたたずみ、ようやく城主マチルダの仲介で面会が許された。グレゴリウスは、ハインリヒの主張を取り下げさせた上で破門を解いた。この事件が「カノッサの屈辱」といわれるもので、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に屈服した形となったので、ローマ教皇権の優位が成立したと捉えられている。

ハインリヒの反撃

 しかしハインリヒは、反撃の機会を狙っていた。ハインリヒの破門が解かれたので反乱の口実が失われた反皇帝派諸侯は、独自にハインリヒのドイツ王位を否認し、新たにシュヴァーベン公ルドルフをドイツ王に選出した。こうしてドイツは二人の王が併存して争うという事態となった。ハインリヒは反グレゴリウス派の大司教や司教などを味方につけ、1080年にはラヴェンナ大司教をグレゴリウスの対立教皇として選出させ、足並みのそろわない諸侯軍を次々と破り、1081年には大軍を率いてローマに遠征し、1084年にはローマを占領して、対立教皇の手によって神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。
 グレゴリウスは、当時、南イタリアに勢力を及ぼしていたノルマン人のロベルト=ギスカルドに援軍を要請、ノルマン軍がローマに侵入したことで救出され、シチリア島のサレルノに逃れた。グレゴリウス7世は1085年、サレルノで死んだ。

Episode 息子二人に裏切られたハインリヒ4世

 グレゴリウス7世との戦いは、ハインリヒ4世が「カノッサの屈辱」を晴らし、最後には勝利したかに見えた。しかし、ハインリヒ4世の神聖ローマ帝国皇帝位はその後も安定せず、骨肉の争いが起こってしまう。1090年には長子コンラートが離反、親子は相争うこととなり、コンラートの死後は1105年に次男のハインリヒ(後の5世)にも反逆され、息子の手で捕らえられて王座から追われ、翌年失意のうちにリエージュで没した。

ウォルムス協約へ

 一方、ローマ教皇には1088年にクリュニー修道院出身のウルバヌス2世が即位、1095年に十字軍運動を提唱、西ヨーロッパキリスト教世界の主導権を握ることとなった。
 1122年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世(ハインリヒ4世の子)と、改革派のローマ教皇カリクストゥス2世との間でヴォルムス協約が成立して、叙任権闘争は終わりを告げ、ローマ教皇の権威が確立、13世紀のインノケンティウス3世のとき、その最盛期を迎えることとなる。一方、神聖ローマ帝国ではハインリヒ5世に継嗣がなく、ザリエル朝は断絶、代わってシュタウフェン朝が成立する。
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ノートの参照
5章1節 ケ.教会の権威