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カペー朝

987年に始まるフランスの王朝。 

西フランク王国のカロリング家の王統が途絶え、パリ伯のユーグ=カペーが有力諸侯から推されて王位について始まった。カペー朝の成立によって「フランス王国」と称されるようになったが、地方の封建領主の力が強く、王権は弱体であった。

10~12世紀のカペー朝フランス

 王位は一応世襲されたが、カペー家の支配の及んだのはその所領のあるパリ周辺とオルレアン付近だけであり、実態は地方政権にすぎなかった。またノルマン人という外敵の侵入から身を守るべく、諸侯たちは城塞を築き、それぞれ主従関係を結んで自己の所領を護りながら自立を強め、フランス各地には、多くの封建領主が分立し、封建社会が形成された。また国土の約半分のノルマンディギエンヌ地方の領主であったアンジュー伯アンリがイギリス王位を継承し、1154年、プランタジネット朝のヘンリ2世となり、カペー家領をはるかにしのぐプランタジネット家国家が英仏海峡にまたがって出現した。このため、封建領主としてはフランス王に臣従するプランタジネット家が、イギリス王としてはフランス王と対等であるという、現代ではあり得ない両者の関係ができあがり、カペー朝は国内のイギリス領地を奪回することに心血を注ぐこととなった。またカペー家の拠点であったパリは、次第に首都として機能するようになり、12世紀から発展が始まり、13世紀にはパリ大学・ノートルダム大聖堂を有するフランスの政治・経済・文化の中心地として繁栄するようになる。またシャンパーニュ地方はヨーロッパの遠隔地貿易のちょうど十字路にあたる地域として経済が発展した。

13~14世紀のカペー王権の強化

 フィリップ2世(尊厳王、1180-1223)は第3回十字軍に参加。イギリス王ジョン王からフランス内の領地を奪い王権強化の第一歩を築いた。ルイ9世(聖王、1226-1270)は第6回、第7回の十字軍を主催。南仏のアルビジョワ派に対する征服を終わらせ、またルブルックを中国に派遣した。フィリップ4世(美王、1285-1314)はローマ教皇ボニファティウス8世と争い、1302年に三部会を召集、翌年はアナーニ事件で教皇を捕らえ、さらに教皇庁をアヴィニヨンに移した。このようにカペー朝末期にはイギリスとの抗争も優位にすすめ、王権は強大となり、フランス国家の基礎が築かれた。しかしフィリップ4世以降は短命な国王が続き、1328年シャルル4世を最後に断絶し、ヴァロワ朝に替わる。その際、フィリップ4世の娘イサベルを母としていたイギリスのプランタジネット朝エドワード3世がフランス王家王位継承権を主張して百年戦争が勃発する。

Episode カペーの奇跡

 カペー朝の王権は、はじめは東フランク王国に比べても微弱であったが、12世紀頃から次第に強大なものになっていった。その背景にはどのようなことがあったか、次のような説明がある。
(引用)「その理由としてよく指摘されるのが、“カペーの奇跡”ともいわれる生物学的要因である。カペー朝の歴代の王は比較的長命で個人的資質もあり、そのうえ、すべて男子後継者に恵まれていたため、生前中に後継者を決めることができた、というのである。これは単純な要因ではあるが、王位の継承問題は諸侯がつけ込む最大のチャンスであるから、たしかに重要な点である。しかし、理由はそればかりではない。カペー家の本拠地であるイル-ドゥ-フランスが経済的に豊かなため、都市から貨幣を調達することが容易なこと、また経済力があるからこそ可能なのだが、法律の専門訓練をうけ「レジスト」(法曹家)と呼ばれる新しい知識人を王の側近として登用し、イデオローグとして、またテクノクラートとして王政の発展に貢献させたことも見逃せない。歴代の王はこれらの有利な条件を生かし、武力だけでなく、封建法を楯に結婚、相続、領地の交換などあらゆる手段に訴えて、勢力の拡大につとめた。とくにフィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の三人が王権の拡大に大きな功績がある。」<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.41-42>
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ノートの参照
第6章1節 カ.分裂するフランク王国
書籍案内

柴田三千雄
『フランス史10講』
2006 岩波新書