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ルテティア/パリ

ローマ時代のルテティア。カペー朝フランスの都となり、12世紀以降に発展し、13世紀にはフランスの中心都市として繁栄した。

ローマ時代からフランク王国へ

 パリはフランスの中央に位置するが、フランスの政治・経済・文化の中心となるのは比較的後のことである。ローマ時代、ケルト人の居住する地域をローマでガリアといい、その属州とされていた時代(ガロ=ローマ時代という)にはルテティアといわれ交通の要衝とされていた。しかし、西ローマが滅亡すると、6世紀ごろにはこの地は衰退した。フランク王国が成立しても、ゲルマン人の国家は首都を定めずに居所を移動するのが常であって、その中でカール大帝が拠点として宮廷をおいたのはアーヘンであったので、パリは首都ではなかった。

パリ伯ユーグ=カペー

 西フランク王国のカロリング家の系統が途絶えて、987年にカペー朝が成立するが、それを創設したユーグ=カペーはパリ周辺とオルレアンに領地を持ち、パリ伯といわれていた。このころからフランスといわれるようになるが、カペー朝の場合も、当初は一定の都を持たず、オルレアンに滞在することも多かった。

パリの発展

(引用)パリの発展は12世紀から始まる。その理由は、パリ盆地がフランス随一の穀物生産地域となったことのほかに、この当時の西欧経済の南北二極、つまり北イタリア諸都市とフランドル地方とを定期市で結ぶシャンパーニュの諸都市(トロワ、プロヴァン、ランなど)と、セーヌ川の水路を通じて直結していたからであった。また、市内のセーヌ左岸のサント=ジュヌヴィエーヴの丘に建つ大学(パリ大学)の名声が、ヨーロッパ各地から学生をひきつけた。1163年から着工されたノートルダム大聖堂の建立も、ルイ9世の時代にほぼ完成し、その治下の13世紀、パリはヨーロッパの経済・政治・文化の中心となる三つの条件を兼ね備えた。<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書>

ブルボン朝とパリ

 パリは12世紀から15世紀はフランスの首都であったが、その後は16世紀のわずかな時期を除いて首都ではなかった。ブルボン朝のルイ14世は、パリにテュイルリー宮殿を作ったが、それとは別に20キロ離れた郊外にヴェルサイユ宮殿を作り宮廷を置いたので、フランス革命でルイ16世が連れ戻されるまで、パリは首都ではなかった。ロンドンがノルマン征服以来、一貫してイギリスの首都で会ったのとは対照的である。

パリ(19世紀の改造)

ナポレオン3世の時代にオスマン知事によって都市改造が行われ、現在のパリの原型できる。

パリの下水道
オスマンの大改造の時に造られたパリの下水道
山川詳説世界史 p.257"
(引用)第二帝政下の国土整備について語るものは、オスマン知事によるパリの改造事業に思いをはせる。この事業はナポレオン3世の個人的支持なくしては、完成しえなかった。それほどに反対の声が高かった。もちろんこの巨大なプロジェクトには、いくつかの政治的底意があった。たとえば市民の最もうるさい部分を郊外に押しやろうとする意図、あるいは古いパリにある狭くて曲がった道路ではなく、秩序維持のためにおり適切で広い幹線道路の建設などである。しかし改造の本質はそこにはない。ナポレオン三世は以前ロンドンの都市改造に衝撃を受けたことがあった。彼はパリを魅力的で管理しやすく、近代的なヨーロッパの都市にしたいと考えた。そこで人びとは街路や大通りを開通させ、荒廃した建物を取り払い、近郊を併合し(モンマルトル、グルネル、ペルヴィルなど)、小公園と噴水をつくり、古い記念物を邪魔者から解放したり、新しく建て替えた(ガルニエのオペラ座、シャトレ、サン=ドーギュスタン教会、ルーヴル宮の完成)。・・・<ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.117-118>
 現在のパリを象徴する凱旋門を中心とした放射線状の街路が造られたのもこのときである。第二帝政下の繁栄を象徴する行事として、第1855年と1864年の2回、パリ万国博覧会が開催された。またそれより前の1852年にはパリで世界最初のデパートである“ボン=マルシェ”が開店している。

生まれかわったパリ

 ナポレオン3世の意図の下、オスマンによって推進されたパリ大改造の最大の成果は技師ベルグランが担当した上下水道であろう。ベルグランは水源の確保と水道の整備を進め、いわばパリの下部構造を造り替えた。この時に造られた巨大な下水溝は、現在でも使用されている。また、上部構造ではブーローニュの森などの公園の整備、古い路地や行き止まりの小路を撤去して幅の広い道路建設など都市計画が進められた。これによって古いパリは失われ、フランス革命や七月革命、二月革命で市民がバリケードを築いた狭い通りは姿を消した。大改造の隠された意図に、民衆反乱の防止があったことはたしかであろうが、それだけを目的としたとは言えないだろう。オスマンは「改造」とは言わずに「美化」と表現していた。現在はパリの中心部とされているエトワール広場は、当時は凱旋門(ナポレオン1世が着手し1836年に完成)の廻りには何もないところだったが、オスマンは広大な広場を中心に放射状の大通りを配置して、新しいパリの中心となった。パリ発祥の地であるセーヌ川の中州のシテ島も、古い民家が密集する人口過密地域であったが、ノートルダム大聖堂などの一部を残して撤去され、公共建築地区に生まれかわった。新しいオペラ座も1862年に着工されたが工事が難航し、完成したのは第二帝政が倒れた後の1875年だった。<鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』2004 講談社学術文庫 第6章による>
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ノートの参照
第6章1節 カ.分裂するフランク王国
第12章2節 エ.第二帝政と第三共和政
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鹿島茂
『怪帝ナポレオン3世』
2004 講談社学術文庫