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イスタンブル

ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの別称であったものが、1453年にオスマン帝国が征服してからは通称となった。

 オスマン帝国はたびたびビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを攻撃していたが、ついに1453年にコンスタンティノープルは陥落し、その支配下に入った。オスマン帝国は都をエディルネからここに移した。一般にこのとき、イスタンブルと改称したとされるが、正式な記録はなく、はっきりしない。また、陥落以前からイスタンブルと呼ばれていたし、陥落後もオスマン帝国の公式文書にもコンスタンティニエの名で出てくるという。ギリシア人で現在もコンスタンティノープルと言う人も多い。
イスタンブールという都市名 スペイン王エンリケ3世がティムール帝国に派遣した使節クラヴィホは、1403年にコンスタンティノープルに滞在し、詳細な滞在記を残している。その中に、「ギリシア人は、われわれが呼ぶようなコンスタンチノープルという名は知らないで、ふうつエストムポールと呼んでいる」という一節がある。<クラヴィホ/山田信夫訳『ティムール帝国紀行』1979 桃源社 p.88>
 この「エストムポール」とは、ギリシア語で「町へ」と言う意味の「イス・ティン・ポリン」がなまって伝えられたものと考えられる。コンスタンティノープルという呼び方はローマ時代からのものだが、現地のギリシア人自身はそうはいっていなかったことは興味深い。このこのイス・ティン・ポリンがトルコ人に伝えられて「イスタンブル」となって、トルコ人もそう呼んでいたとすれば、「1453年のメフメト2世のコンスタンティノープル征服後にイスタンブルと改称した」という記述は正しくないことになる。山川教科書現行版の注では「このときコンスタンティノープルに首都が定められ、これ以後イスタンブルという呼称が一般化した」とされている。もっとも、現代のギリシア人の中は依然としてこの地をギリシア領であるべきとして、コンスタンティノープルとしか呼ばないとも言う。<参考 渋澤幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』1997 新潮文庫 p.150>

ムスリムの都市への改造

 いずれにせよ、メフメト2世は征服直後からこの町をムスリムの町に変える作業に取りかかった。聖ソフィア聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)もこのときモスクに造り替えられアヤ=ソフィア=モスクと言われるようになり、キリスト教の聖像は取り除かれ、メッカに向かって礼拝するため、メッカの方向を示すミフラーブ(アーチ型の壁龕)がつくられ、礼拝への誘いを肉声で呼びかけるための尖塔(ミナレット)が周りに4本建てられた。また市街もモスクを中心に区画整理がされ、水道を整備し、イスラーム学校(マドラサ)、病院、貧者への給食施設などの公共施設が造られた。市民は各地でバザールを開催した。さらにメフメト2世は、スルタンの宮殿を新たに建造した。宮殿は新旧二つ造られ、その新宮殿が有名なトプカプ宮殿(大砲を備えた門があったのでトプカプ宮殿という)である。イスタンブルでは、キリスト教徒はモスクの近くに住むことはできなかったが、その他ではムスリムと混在し、ユダヤ教徒も多かった。イスタンブルは宗教の共存が許された都市であった。<鈴木董『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』1992 講談社現代新書 p.74>

イスタンブルのモスク

 現在、イスタンブルには、聖ソフィア聖堂(ハギア=ソフィア聖堂。現在はアヤ=ソフィア=モスクというが、博物館となっている)とスレイマン=モスク(トルコ語ではスエイマニエ=モスク)という二大モスクの他、スルタン=アフメト=モスク(通称はブルー=モスク)、バヤジット=モスクなど各スルタンが建設した大モスクから小さなモスクまで多数が建築されている。これらはいずれも礼拝所であるモスクを中心に、学校(マドラサ)や救貧所を併設する総合施設(トルコ語でジャミイ)であった。このうち、ハギア=ソフィア聖堂とブルー=モスクは並んで建っていて、いずれも大きなドームとミナレット(尖塔)からなっており、一見するとよく似ている。しかし、前者は6世紀、後者は17世紀の建築で1000年以上離れている。見分け方は、ハギア=ソフィア聖堂は赤茶けた壁色でミナレットが4本、ブルー=モスクは白い壁色でミナレットが6本、ということである。これらのモスク建築に活躍した建築家がスレイマン1世時代のミマーリ=シナンであった。
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ノートの参照
7章3節 トルコ・イラン世界の展開
書籍案内

渋澤幸子
『イスタンブール、時はゆるやかに』
1997 新潮文庫

著者は1980年代から頻繁にトルコを訪れている旅行家。若い女性の一人旅で見聞、体験した話も面白いが、ところどころで触れられる古代から現代までのイスタンブルの歴史も興味深い。