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ローマ皇帝

ローマ帝国の支配者。前27年のアウグストゥスを初代とし、2世紀には五賢帝と言われる安定した統治を行った。帝国の前半では共和政の要素と調和させた元首政が採られたが、軍人皇帝時代をへて、3世紀末には専制君主政に変質した。395年に東西に分裂、東西ともローマ皇帝を称し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では1453年まで存続した。西ヨーロッパ世界では800年にフランク王国のカールの対韓で形式的に復活し、神聖ローマ皇帝に継承された。

ローマ皇帝の称号

 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの最終的な(崩御の時の)正式な肩書きは、「インペラトル(最高司令官)・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官・コンスル十三回・最高司令官の歓呼二十回・護民官職権行使三十七年目・国父」という恐ろしく長いものであった。また、元首(プリンケプス)も称号ではなく、地位を意味する。肩書きが長すぎるので、元首つまり皇帝に呼びかけるときは最初のインペラトルか、次のカエサルを用いられるようになる。<本村凌二他『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論新社 p.325 などによる>
「皇帝」とは  「皇帝」の語は本来中国語であり、前221年に秦の始皇帝が初めて用いた物で、英語の emoeror 、ドイツ語の Kaiser 等の訳語に充てている。このエンペラーもカイザーも、ローマのカエサルに由来し、いずれもローマ皇帝の正式称号の中に含まれているので、ローマ皇帝をまさに「皇帝」とよぶようになった。一般に、アウグストゥスを初代のローマ皇帝とよんでいるが、しかしその称号の中の Inperator も Caesar も称号ではあっても特定の職務内容を持った皇帝位を表示する語ではなかった。また、Princeps も、「第一人者」という地位を示すだけで、具体的な権限が付随するわけではなかった。そのアウグストゥスは、前40年から死去するまでの間に、執政官の地位を継続したり、属州に対する命令権(プロコンスル命令権)などを毒することなどによって、実質的な専制権力を獲得してゆき、その権力がその後長く継承されたことによって、ケンペラー、カエサル、アウグストゥスの語が「皇帝」を意味することとなった。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.151>

ローマ皇帝の継承

 初代皇帝アウグストゥスの子供は娘のユリア(ユリアはスキャンダルの多い女性であったため、父帝によって幽閉される。)一人でその子も若死にしたので、妻の連れ子でユリアの夫であったクラウディウス家ティベリウス(ユリアの乱行に怒りロードス島に隠棲していた)をその後継者に指名した。彼は2代目の皇帝となった時、すでに60歳を超えていた。その後、ローマ皇帝の地位は、第5代ネロ帝までこのユリウス=クラウディウス朝(カエサル-アウグストゥスがユリウス家、ティベリウス以下がクラウディウス家)に世襲された。ネロ帝が自殺したあとは、何代か近衛部隊に推された者が皇帝となったがいずれも長続きせず、69年のウェスパシアヌスからフラウィウス家の皇帝が三代世襲する(フラウィウス朝)。次のネルヴァ帝からの五賢帝は、血縁のないものを養子にし、次の皇帝に指名する形態が続いた。このように、皇帝位は元老院の推薦のもとで、世襲か、養子で継承するというものであった。共和政でもない、東洋的専制君主政もとれない、というローマ帝国の事情がそのような皇帝位継承形態となったのであろう。

ローマ皇帝と軍隊

 五賢帝の最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌスは長子のコンモドゥスを皇帝に指名した。コンモドゥスは暴政を行ったので反乱が起き、その混乱の中で、親衛隊(近衛部隊)を買収した人物が皇帝になるなどの混乱が続き、193年にセプティミウス=セウェルスが皇帝となって混乱を治めた。彼はアフリカ出身の軍人で、ドナウ川上流のパンノニア知事を務めていた人物であった。彼の次の皇帝には、子のカラカラとゲタ兄弟が共同統治をおこなった。このセウェルス朝から、皇帝は親衛隊が指名し、元老院が承認して就任するという図式が確定し、皇帝はその見返りに軍人報酬を引き上げなければならなかった。

軍人皇帝時代

 セウェルス朝の時代は東でササン朝ペルシアが台頭、北でゲルマン人の侵攻が激化し、軍の重要性が増した時代でもあった。そのような中でカラカラ帝が親衛隊隊長に暗殺されるという事件が起き、皇帝の権威は急速に動揺し、235年には皇帝セウェルス=アレクサンデルが兵士に暗殺されて、次にマクシミヌスが軍隊によって推されて皇帝を称し、それが承認されて軍人皇帝時代となる。この時期には軍人が皇帝を擁立し、次々と交替するすることとなったが、もともとインペラトルとは「命令権」を持つ者の意味で最高司令官であって、軍との関係が強かった。軍の最高司令官(日本で言えば戦前の天皇が大元帥として統帥権を持っていたようなもの)である皇帝は軍が服従するにたる人物かどうかが重視されていたのであろう。

ローマ皇帝の併存

 ローマ帝国は395年に東西に分裂し、それぞれが皇帝を戴くこととなる。しかしそれより前、すでに3世紀末のテオドシウス帝の時に四帝分治制(テトラルキア)が採られ、帝国の行政は東西に分割され、それぞれに正帝と副帝がいるという、「帝政国家」には似つかわしくない状態になっていた。東西分裂はその状態が固定されたに過ぎない。その後、西ローマ帝国は476年に滅亡し、皇帝もいなくなったが、東ローマ帝国では皇帝位は存続し、7世紀ごろからはビザンツ帝国のビザンツ皇帝といわれるようになる。

中世のローマ皇帝

 東西の皇帝の並立状態を復活させたのが、800年のカールの戴冠であった。フランク王国のカール大帝がローマ皇帝を名乗ることにより、再び地中海世界に皇帝が二人存在することとなった。もっとも西の皇帝位は安定せず、結局、962年の東フランクのオットー以降は神聖ローマ皇帝といわれるようになる。こちらはドイツ王に継承されるが、代々の皇帝はローマ皇帝という称号を実質的なものにしようと、イタリア政策に熱中したことはよく知られている。それは同時にローマに君臨するローマ教皇との激しい叙任権闘争を生み出すこととなった。

皇帝の終わり

 神聖ローマ皇帝の地位は途中から選挙制になったりしながら、形式的にはハプスブルク家に継承され、ナポレオン戦争の結果、1806年にフランツ2世が退位して消滅する(そのままオーストリア皇帝となる)。一方の東ローマ皇帝は、1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅ぼされたため、そこで終わる。現在に至るまでビザンツ皇帝および皇帝と一体であったギリシア正教会の都であったコンスタンティノープルはイスラーム教徒に占領されたままであるが、ロシア皇帝はビザンツ皇帝を継承し、ギリシア正教の後身であるロシア正教の保護者として皇帝ツァーリ(カエサルのロシア語形)を称した。しかしそのロシア皇帝も1917年のロシア革命で殺されている。ローマ皇帝=ツァーリの名称は、なんと20世紀初頭まで生き残っていたこととなる。
参照 中国の皇帝
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ノートの参照
1章3節 エ.ローマ帝国
書籍案内

青柳正規
『ローマ帝国』
2004 岩波ジュニア新書

桜井万里子/本村凌二
『ギリシアとローマ』
世界の歴史5
1997 中央公論新社

弓削達
『ローマ帝国論』
初刊1966 再刊2010
吉川弘文館