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大憲章/マグナ=カルタ

1215年、イギリス王ジョンに対し、貴族と都市が王権の制限、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法による支配」などの立憲主義の出発点であり、イギリス憲法の一部と位置づけられている。

 マグナ=カルタ(Magna Carta)。1215年、イギリスプランタジネット朝の国王ジョンに対し、封建諸侯と都市代表が共同して認めさせたもので、王権を制限し、諸侯の既得権と、都市の自由を規定し、イギリス憲法を構成する重要な憲章とされている。
 当時、ジョン王はフランス王フィリップ2世と争い、フランスに出兵するため、諸侯や都市に莫大な軍役を賦課していた。諸侯と都市の上層市民は出費を拒否、戦いを強行したジョンが敗北してイギリスに戻ると諸侯はジョン王への忠誠破棄を宣言し、挙兵した。ロンドン市民もそれに呼応し、首都は反乱軍が制圧することとなった。ジョン王は妥協をはかり、1215年6月15日、テームズ河畔のラニミードで彼等の要求に従い、大憲章(マグナ=カルタ)に署名した。全文63ヶ条からなる長文な条文なので大憲章(マグナは「大」、カルタは「憲章」を意味するラテン語で英語で言えば、the Great Charter)と言われた。その主な内容は、国王の徴税権の制限、教会の自由、都市の自由、不当な逮捕の禁止などである。 → 資料 マグナ=カルタの内容

大憲章(マグナ=カルタ)の意義

 封建社会で慣習的に認められていた諸侯(封建領主)の権利を国王が認めたもので、そのほかに、教会の自由、市民の自由、不当な逮捕の禁止など人権に関する規定を含んでいた。また、第12条で、国王が軍役金を賦課する場合は、諸侯の会議に承認を得る必要があるという事項は、後に、国王といえでも議会の議を経ずに課税は出来ない、と解釈されるようになり、法の支配と議会政治の原則が成立知多所に意義が求められている。そして、後のイギリス革命の時の「権利の請願」「権利の章典」と並んで、基本的人権と立憲君主政を理念とするイギリス憲法を構成する重要文書となった。

大憲章のその後

 しかし、表題からも判るようにこの文書はラテン語で書かれており、一般庶民に読ませる物ではなかった。また、次のヘンリ3世はマグナ=カルタを無視して新たな課税を行い、反発した貴族がシモン=ド=モンフォールに率いられて反乱を起こし、1265年に最初の議会であるモンフォール議会が開催されている。しかし、マグナ=カルタの存在は、バラ戦争後のチューダー朝で王権が強大になった時代にはほとんど忘れされてしまう。マグナ=カルタが英訳されるのはようやく16世紀のことであり、17世紀のピューリタン革命の時にその存在が重視されて、蘇った。

大憲章(マグナ=カルタ)の評価

 マグナ=カルタは17世紀のイギリス革命に際して、絶対王政の国王専制に対する個人の人権を守る「武器」として用いられた。そのような見方は19世紀の自由主義的歴史学に受け継がれ、イギリス国政の礎石であるという評価が定着した。しかし20世紀の歴史学ではそのような評価は非歴史的・神話的であるとして斥けられ、これを諸侯の私的怨恨や私的利益の追求から生まれたもので、集権化に対する諸侯の封建的反動の文書であるという説が有力となった。たしかに大憲章を実現した主体は封建貴族の上層部であった。しかし、その内容は王権の制限、自由人の権利の保障まで踏み込んでおり、農奴は含まれないから全イングランドとはいえないが、かなりのひろがりをもった社会的基盤の上に立っていたことは認めてよい。ただし、1215年の大憲章は簡単に法であると言うことはできない。中には慣行としてすでに確立していた部分や、法として確立しなかった部分もある。当時の諸侯が法として確立させたいと望んでいたところを述べたものが1215年の大憲章である。<城戸毅『マグナ・カルタの世紀』1980 東大出版会 p.77-78>

資料 マグナ=カルタの内容

 以下は、1215年のイギリス国王ジョンが定めた大憲章(マグナ=カルタ)の前文および主要な条項の抜粋である。〔 〕は趣旨の要約。<出典は、第12条・39条は『世界史史料5』(岩波書店)城戸毅訳、その他は『人権宣言集』(岩波文庫)田中英夫訳)>
前文
 神の恩寵により、イングランドの国王、アイルランドの王、ノルマンディおよびアキテーヌの公、アンジューの伯であるジョンは、諸々の大司教、司教、僧院長、伯、バロン、判官・・・およびすべての代官ならびに忠誠な人民にあいさつを送る。神の御旨を拝察し、朕および朕のすべての先祖ならびに子孫の霊魂の救済のため、神の栄光と神聖なる教会の頌栄のため、かつまた朕の国の改革のために、尊敬すべき諸師父すなわち・・・(人名略)・・・およびその他の朕の中正なる人民の忠言を入れて
第1条
 まず第一に、イングランドの教会が自由であり、その諸権利はこれを完全に保持し、その自由は侵されることがない旨を、朕は、朕および朕の相続人のために、永久に神に許容し、かつこの朕の特許状をもって確認する。・・・〔教会の自由〕
第12条
 いかなる軍役代納金(注1)援助金(注2)も、わが王国の共同の助言(注3)によるのでなければ、わが王国では課せられてはならない。ただし、わが身代金払うため、わが長男を騎士とするため、およびわが長女をいつか嫁がせるための援助金は、この限りではない。・・・〔国王の課税権の制限、課税同意の原則〕
第13条
 ロンドン市は、そのすべての古来の自由と、陸路によると海路によるとを問わず自由な関税とを保有する。このほかなお、他のすべての都市、市邑、町、および港が、そのすべての自由と自由な関税とを保有すべきことを、朕は欲し許容する。〔都市の自由〕
第14条
 (軍役免除金、援助金の賦課に関して)王国の一般評議会を開催するためには、朕は、大僧正、僧正、僧院長、伯、および権勢のあるバロン達には、朕の書状に捺印して召集されるように手配する。・・・召集は一定の日に、すなわち少なくとも40日の期間をおき、一定の場所において行われるものとする。・・・〔課税同意の手続き〕
第30条
 州長、朕の代官、その他の者は、運搬を行う目的で、自由人の馬または荷馬車を当該自由人の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
第31条
 朕も朕の代官も、城その他の朕の用のため、他人の材木をその材木の属する者の意志に反して徴発してはならない。〔自由人の権利〕
第35条
 朕の全王国を通じて、単一のぶどう酒の枡目、ならびに染色布、小豆色粗布おおびくさりかたびらの単一の幅が用いられるべきものとする。目方についても同様とする。〔度量衡の統一〕
第39条
 いかなる自由人も彼の同輩の法に適った判決か国法によるのでなければ、逮捕あるいは投獄され、または所持物を奪われ、または追放され、または何らかの方法で侵害されてはならない。・・・〔自由人の権利、適法手続きの原則〕
第40条
 朕は何びとに対しても正義と司法を売らず、何びとに対しても正義と司法を拒否または遅延せしめない。〔裁判の尊重〕
第41条
 すべての商人は・・・旧来の正当な関税によって、売買のために、安全にイングランドを出、イングランドに帰り、かつイングランド内に滞留し、陸路によると水路によるとを問わず国内を移動することが出来る。・・・朕の国の者が他国において安全ならば、朕の王国においても他の国の者を安全とする。〔商業活動の自由〕
第63条
 このように、朕は、イングランドの教会が自由であること、ならびに朕の王国内の民が前記の自由、権利および許容のすべてを、正しくかつ平和に、自由かつ平等に、かつ完全に、かれら自身のためおよびその相続人のために、朕と朕の相続人から、いかなる点についてもまたいかなる所においても、永久に保有保持することを、欲し、かつ確かに申付ける。・・・朕の治世第17年6月15日、朕の手より与えらる。〔マグナ=カルタの普遍化〕
注1 軍役代納金:中世封建制では家臣は年間40日の費用自弁の軍役の義務があったが、12世紀にはそれが貨幣で代納されるようになった。それが軍役代納金(楯金または軍役免除金ともいう)で、王や諸侯はその代納金で傭兵を雇うようになっていた。
注2 家臣の王、主君に対する義務の一つとしての献金。
注3 第14条に述べられている「王国の一般評議会」(全体の協議会)のこと。

Episode マグナ=カルタ、800年記念式典

マグナカルタ800年式典
15日あった記念式典にはエリザベス女王(左から3人目)らが列席した
=AFP時事
 2015年6月15日、「マグナ=カルタ」発布から800年を記念する式典が行われた。以下、朝日新聞の記事(右の写真も)を引用する。
(引用)権力者の力を法で制限する立憲主義や人権の概念の土台となった大憲章「マグナ=カルタ」(1215年)の発布から800年の節目にあたる15日、ロンドン南西部ラニーミードで記念式典が行われた。
 テムズ川右岸のラニーミードの草原は、恣意的な課税など王権を乱用したイングランドのジョン王に反発した貴族たちが、闘いを経て、ジョン王に大憲章を発布させた地だ。大憲章は米国の独立宣言や憲法にも強い影響を与えた。
 式典にはエリザベス女王やキャメロン首相、リンチ米司法長官らが列席。エリザベス女王は式典プログラムに「大憲章の理念は重要であり、不朽です」とのメッセージを寄せた。<朝日新聞 2015年6月16日 夕刊>
 マグナ=カルタはイギリス憲法の一部を構成しているとされている。子細に見れば、上述のように、必ずしも市民の立場で作られたものではなく、封建領主が自己の権利の確保のために国王に強制した文書に過ぎないが、その後の歴史によって「基本的人権と立憲主義」の出発点となった重要文書であると意義づけ、権威づけられた。そして800年を経っても生きている。さすれば、わずか50年の日本国憲法を「古い」と言う一言でかたづけることはできないことが判る。