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コンベルソ

中世スペインでのユダヤ人でキリスト教に改宗した改宗者のこと。

イベリア半島のレコンキスタが進行する中で、カトリック信仰による国家統一をすすめようとしたスペイン王国のイサベル女王(カトリック両王)が打ち出した、異端審問制度やユダヤ教徒追放令の圧力によって、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗した。彼らを俗にコンベルソという。

ユダヤ人改宗者(コンベルソ)

 ユダヤ人社会はユダヤ教徒と改宗者(コンベルソ=新キリスト教徒)の二つに分かれ、反ユダヤ暴動後も彼らの社会的地位は高くなり、中には高位の聖職者、宮廷の財政や行政の担当者などになり、また商人の中には高額の持参金で貴族と婚姻関係を結び上流社会とも結びついていった。そのため反ユダヤ人感情はその後も衰えず、たびたび暴動が起こっている。ユダヤ人に対する反感が強まる中で、ユダヤ人改宗者はユダヤ教徒を非難・攻撃したり、さらに改宗者の中でも熱心な新キリスト教徒は、改宗を装うだけで内心のユダヤ教信仰を捨てていないユダヤ人に対して激しく非難するようになった。

異端審問制の始まり

 熱心な改宗者たちは、自分たちの立場を守るために、偽キリスト教徒を取り締まることをイサベル女王に進言した。敬虔なカトリック信者であったイサベルも心を動かされ、1478年にローマ教皇に嘆願書を出し、セビリャで二人のドメニコ会修道会によって異端審問官を設置することが認められた。これがスペインの異端審問制度の始まりである。注意しなければならないのは、異端審問所はユダヤ教徒やイスラーム教徒に対する取締ではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたことである。最初の裁判は1481年2月6日に開かれ、6人が火刑に処せられた。異端審問所の設置は改宗者に大きなショックを与え、セビリャでは改宗者が群れをなして逃亡した。

ユダヤ人追放令

(引用)「イサベルのユダヤ人追放の決断は、結局のところ、偽装した新キリスト教徒の存在や、改宗者のユダヤ教への逆もどり現象が、ユダヤ人社会を抹殺しないかぎり根絶できない、という彼女の判断にもとづいてなされたもののようです。べつに人種的偏見があったわけでなく、またよく言われるように、国家統一の具に宗教を用いたというのではなく、純粋に宗教的な動機にもとづいていた、と言うのが真相だと言われます。・・・しかし、ことは単にイサベルやフェルディナンドの宗教的情熱の問題に過ぎなかった、と割り切るのはいけないと思います。彼らの背後には、当時のスペイン社会一般の要望、あえて言えば文化的要望がひそんでいたのです。それは中世の末期において、スペイン人の文化と精神のうちにひそやかにおこりつつあった、一つの質的転換とふかくからみ合っていたのです。宗教的な統一は、そうした文化変化のひとつのあらわれにすぎませんでした。」<増田義郎『コロンブス』p.142>

イサベル周辺の改宗者

 イザベル女王の周辺には、想像以上に改宗者が多かった。またコロンブスの航海を審査し、支持し、資金を供給した人の多くも改宗者だった。そういったことは当時のスペイン社会では当たり前のことだった。女王の側近や侍医、廷臣だけでなく、著名な学者にも多かった。彼らはイサベルに献金して、ユダヤ人追放令を思い止らせようとしたが、イサベルは首を横に振るばかりであった。

16世紀スペイン文化の開花と改宗者

 こうして追放令と異端審問によってスペインのユダヤ人社会は大きな打撃を受け、スペインの経済・産業の発展とともに学問や知識の面でも大きな打撃となった。その一方で、スペインにとどまった改宗者は心理的葛藤に直面し、自らを厳しく問うことになった。そこから「改宗者の創造的活力」が生まれたと言えるかもしれない。スペインの新大陸侵略を告発したラス=カサス、初めてカスティーリャ語の文法書を書いたネブリハ、歴史家オビエード、その他多くの文学者が改宗者であり、彼らがスペインの世紀と言われる16世紀の文化を担ったのだった。また、エラスムスの人文思想をスペインで発展させたのもビトリアなどの改宗者の人文学者であった。<以上、増田義郎『コロンブス』岩波新書のp.136-163 の要約>