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乾隆帝

中国の第6代皇帝。清朝の領土を最大に拡張し、その最盛期の皇帝となった。また四庫全書の編纂などの文化事業を行い、長期の安定した統治を実現した。然し晩年には農民反乱、イギリスの自由貿易要求の強まりなど、同様の兆しが見え始めた。

乾隆帝
カスティリオーネの描いた馬上の乾隆帝
 清朝の第6代の皇帝(在位1735~1795年)、康煕帝雍正帝に続く清の全盛期となった。その統治は60年に及び、祖父の康煕帝の61年以上になってはいけないということから95年に退位し、さらに4年間上皇として政治にあたった。

領土の拡大

 この乾隆帝の時代、18世紀の中頃、清はその領土を最も広げ、世界最大にして最強と思われる国家となった。乾隆帝自身が数度にわたって辺境に遠征を行い、モンゴルのジュンガル、中央アジアの東トルキスタンのウイグル人居住区(乾隆帝の時領有して、「新疆」とした)、四川南部の苗族の平定、ビルマへの遠征などを展開した。この結果、満州人・漢人・モンゴル人(蒙)・ウイグル人(回)・チベット人(蔵)という、多民族国家としての現在の中国の「五族協和」という体制ができあがった。

内政

 内政でも康煕帝の『古今図書集成』や『康煕字典』にならって、それを上回る修書事業を行い、『四庫全書』の編纂を行い、中国文明の集大成を図ったが、同時に異民族支配である清に対する批判は許さず、前代に続けて「文字の獄」の弾圧が行われた。また紫禁城の大規模な修築の他、円明園、頤和園、北京の天壇(祈年殿)、熱河避暑山荘(離宮)など次々と造営を行った。

海禁策

 乾隆帝は中華思想に基づく朝貢貿易の立場を強め、1757年に海禁に転じ、外国貿易は広州一港での公行による貿易に限定した。18世紀後半に産業革命を進行させていたイギリスが、中国市場開拓に乗りだし、1793年にマカートニー使節団を派遣、制限貿易の撤廃を要求してきた。乾隆帝は要求を拒否したが、このような外圧は19世紀にはより強くなり、資本主義世界史上に組み込まれていく。

Episode 乾隆帝の「十全の武功」

 清の乾隆帝の時、領土は史上空前の規模となり、帝自ら「十全の武功」と自賛している。彼の言う「十全の武功」とは、(1)1754年のジュンガル部出征、(2)58年のジュンガル部への再征、(3)59年のウイグル族征服、(4)49年の苗族制圧、(5)76年の苗族への再征、(6)69年のビルマ遠征、(7)88年の台湾の反乱の鎮定、(8)89年のベトナムの服属、(9)90年のネパールの征討、(10)92年のネパールへの再征、の10回の軍事行動を言う。ところがこの10回とも乾隆帝は一度も出陣していない。自ら軍隊を率いて出征した康煕帝とはだいぶちがっていた。またこのうち実質的な勝利といえるのは(1)(2)(3)つまり後年の新疆省設置(1884年)につながる戦役くらいで、その他は人命と莫大な戦費を費やしながら勝利とは言えない、実質を伴わないものだった。それでも現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っている。<寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 p.128-132>

Episode 乾隆帝をめぐるあるうわさ

 新帝、特に異民族の皇帝の場合はさまざまな風評がつきものであるが、乾隆帝にもその出自を巡る奇妙な噂がささやかれ始めた。乾隆帝は漢人だというのである。父の雍正がまだ親王だったとき、男子誕生を熱望していた親王妃が、後に雍正帝即位の黒幕となる陳世倌夫妻の男子と同じころ生まれた彼女の女子と取り替えたというものである。だとすると乾隆帝は完全な漢人ということになる。後に乾隆帝が江南地方を巡幸したとき、同地に余生を送る陳夫妻と再会し、懇ろな破格な交流をしており、帝みずから噂をひりげた格好になっている。「乾隆には、大清の版図に周囲の蛮族を取り込むだけでなく、その周辺を朝貢国とする新中華思想に基づく世界を構築するうえで、自らの出自を中華とする必要、少なくとも夷狄であることを秘匿したい心情があったのではないか。」<入江曜子『紫禁城―清朝の歴史を歩く』2008 岩波新書 p.53-54>
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ノートの参照
7章2節 ア.清代の統治
書籍案内

寺田隆信
『紫禁城史話』
1999 中公新書

入江曜子『紫禁城―清朝の歴史を歩く』
2008 岩波新書