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紫禁城

中国の明の永楽帝が都北京に建造した宮殿。その後も代々修築が続けられ、清代にも継承された。現在も北京中心部に残され、故宮博物館となっている。

 王朝の永楽帝が1421年に建設した北京の皇城で、次の清朝最後の宣統帝までの24代の皇帝が約500年にわって居城としたところ。紫は天帝にあたる星座を紫微垣(しびえん)を意味し、天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝の住居である禁城をあわせたもの。現在は故宮博物館として公開されている。
 北京は全体が東西2500m、南北3000mの区画を占める皇城であり、その南の出入り口が天安門である。この皇城のなかに、さらに東西760m、南北1000mの周りの堀をめぐらした区画が皇帝の居住する紫禁城である。まさに皇帝の絶対権のシンボルとしての威容を誇っている。建造は永楽帝が1407年に開始し、1420年に完成、翌年正月に遷都の儀式が行われた。ところがわずか100日後に落雷によって大部分を焼失し、1441年に再建された。その後も何度か、火災に見舞われ、現存する建物はほとんど清代の乾隆帝ごろまでに建設されたもの。木材の不足する華北なので、中国南部から運んだ巨木を用い、黄瑠璃瓦で屋根を葺き、白色にはえる三層基壇の大理石の上に極彩色の宮殿を今も見ることができる。<寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書/入江曜子『紫禁城―紫禁城の歴史を歩く』2008 岩波新書などを参照>

清朝の皇帝たちと紫禁城


紫禁城・養心殿の額の漢字と満州文字
 紫禁城は永楽帝の時に造営されたが、その後火災や明末の動乱で荒廃したものを、清の順治帝が入城して以来の歴代の清朝皇帝によって再建された姿が現在見ることが出来る。1644年、順治帝が紫禁城に入城したときはわずか6歳であったので、実権は叔父のドルゴンであった。ドルゴンは紫禁城を修築するにあたり、国家的儀式の場である奉天殿、華蓋殿、謹身殿を太和殿、中和殿、保和殿(前三殿)に改め、その正面に掲げた殿額の従来の漢字の左、すなわち上位に「ワラビ字」と俗称される満州文字を並べ、紫禁城の主人が誰であるかを雄弁に語らせた。<p.14>
 前三殿の奥の乾清門の内部の乾清宮・交泰殿・坤寧宮の奥三殿は皇帝の私的な生活の場であり、原則として一般人は立入が許されなかったが、康煕帝の時代には例外としてイエズス会の宣教師たちは出入りが許された。康煕帝はフェルビーストら宣教師を招き入れ、盛んに西洋の学問を学んでいた。<p.29>

紫禁城・乾清宮の正面の「正大光明」額
 清朝は満州時代以来、皇帝継承者としての皇太子を置かず、諸王子の中から八旗の隊長たちが衆議して選ぶという習慣であった。そのため次期皇帝の座をめぐって王子たちの陰湿な争いが絶えなかった。自身がそのような権力闘争の中で皇帝となった雍正帝は独自の継承法として秘密建儲法を編み出した。それは皇帝が後継者を決めたら、その名を明かさずに乾清宮の正面の「正大光明」額の裏に容れておき、死後にそれを明らかにする、というものであった。現在もその辺額を見ることが出来る<p.40>。雍正帝はまた清朝の政治機構の大きな変更を行った。自らはそれまでの内廷であった乾清宮にすまずに、狭い養心殿に居を移し、また政治機構の中枢をそれまでの内閣大堂から新たに乾清門左手に軍機処を設けて、そちらに移した。現在も驚くほど質素な軍機処の建物を見ることが出来る<p.44>。
 乾隆帝は「何かに憑かれたように宮殿造営に熱中した。巨大な、あるいは壮麗な宮殿を建てることが、ある種の自己顕示欲を満たすものであるにもせよ、欲望の赴くままに浪費した国費が、結局は国を傾けることになる。・・・紫禁城内に限ってもほとんど途切れることなく新築、増改築、造園が行われている。(即位)四十八年には寵臣和珅(わしん)に命じて、紫禁城の屋根を黄瑠璃瓦に葺きかえる大工事を行う<p.62>。」それ以外にも乾隆帝は円明園、頤和園、北京の天壇(祈年殿)、熱河の避暑用の離宮など次々と造営した。
 次の嘉慶帝の時代には、清朝の支配の動揺が表面化し、1813年には天理教徒の乱がおきて、反乱軍が紫禁城に乱入、撃退されたがそのときの反乱軍の放った鏃が隆宗門の門額に刺さったまま残されている。<p.80>
 19世紀に入り、アヘンの害毒が宮廷にまでおよび、また銀の流出が深刻な財政難をもたらしてきた。道光帝は果断にアヘン撲滅を決意し、林則徐を欽差大臣に任命して広東に派遣、イギリス商船のアヘンを没収したが、それを口実としたイギリス軍とのアヘン戦争で敗れるという大きな試練に直面した。次の咸豊帝の時には太平天国の乱が起こり、さらにアロー戦争がおこるという事態となった。この咸豊帝の妃となったのが西太后であった。以下、入江曜子著『紫禁城―清朝の歴史を歩く』では、西太后を中心に繰り広げられた、清朝末期の紫禁城内の、特に後宮での王妃や宦官の生活、権謀術数が詳しく述べられている(第5章 後宮という名の秘境)。

Episode 黄昏の紫禁城

 辛亥革命の結果、1912年1月1日をもって民国元年として、中華民国が成立し、清朝は269年の歴史を閉じた。6歳であった宣統帝は、先帝の皇太后と袁世凱との取引によって、400万両の年金、皇帝の尊称の使用(ただし1代に限る)、紫禁城に暫定的な居住を認めるなどの条件で退位し、最後の皇帝となった。その結果、紫禁城は外廷区域を民国の管理下におき、内廷区域は6歳の廃帝溥儀の暫定的な居住区域とされた。「国土と人民、軍隊こそないが、小さな行政機関(内務府)をもち、皇帝の称号、年号、官職名などもそのままに、王朝の夢から醒めきれない遺臣たちに支えられて依然として小さな独立国の趣き保ち続ける清室を人々は“小朝廷”と揶揄した」<p.188>。  1924年9月、軍閥間の抗争である第二次奉直戦争の最中、クーデターで北京の実権を握った馮玉祥は袁世凱の帝政や張勲の復辟(溥儀の皇帝復位を画策していた)に反対し、辛亥革命の本来の目的に戻ることを掲げて、溥儀に対して優遇条件の破棄を通告、紫禁城からの退去を要求した。事態を把握しきれずにいた溥儀と1000人に近い官人、女官、宦官は右往左往するのみで、結局馮玉祥の派遣した軍によって紫禁城から追い出された。ドルゴンが威風堂々と入城した1644年から280年を経て清朝皇帝は紫禁城から退去したが、同時に3000年におよぶ皇帝政治の終わりでもあった<p.208>。

紫禁城から故宮博物館へ

 紫禁城及びその財宝をどうするかについては中華民国でもさまざまに議論された。義和団事件の時に北京を占領した外国軍(日本軍も含む)が紫禁城にも侵入し、その財物の一部が持ち出されたことがあったので、まず国民の財産として守ろうという意識が強まり、1924年11月には汪兆銘や蔡元培(北京大学学長)の代理人や、甲骨文字の研究者羅振玉らが加わった委員会が発足し、紫禁城所蔵文物の管理と記録の作業が始まった。その結果翌1925年10月10日の辛亥革命記念日に、紫禁城は人民の故宮博物院として新しいスタートを切った<p.214>。
 以上は<入江曜子著『紫禁城―清朝の歴史を歩く』2008 岩波新書>による。<>内は参照ページ。
 溥儀の紫禁城での生活は、映画『ラストエンペラー』の原作となった、その家庭教師ジョンストンの手記にも詳しい。<ジョンストン『紫禁城の黄昏』岩波文庫>
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ノートの参照
第7章1節 イ.明初の政治
7章2節 ア.清代の統治
書籍案内

寺田隆信
『紫禁城史話』
1999 中公新書

入江曜子『紫禁城―清朝の歴史を歩く』
2008 岩波新書

ジョンストン
/入江曜子・春名徹訳
『紫禁城の黄昏』
岩波文庫
世界史の旅
中国の旅
紫禁城