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ルーマニア/ルーマニア人

ドナウ川北岸、トランシルヴァニア山脈・カルパチア山脈周辺に広がる、東ヨーロッパの大国。2世紀の初めローマの属州ダキアとなり、後にルーマニアと言われるようになる。14世紀にはモルダヴィアとワラキアの二国家を形成。14世紀末からオスマン帝国の支配を受ける。19世紀からロシアの南下政策が及び、両大国の支配を受ける。1861年にトラキアとモルダヴィア二公国が統一、ルーマニア公国となり、1878年に王国となる。第二次大戦でソ連軍が進駐し、社会主義政権が樹立される。1989年東欧革命の中でチャウシェスク独裁政治を倒し民主化を達成した。

ルーマニア地図

現在のルーマニア YahooMap

 ルーマニアの起源は諸説あるが、一般にはローマ帝国のトラヤヌス帝の時に征服され、属州としてのダキアとなったところから始まるとされている。それ以来のローマ人が、スラヴ人と同化してルーマニア人が形成されたといわれる。ルーマニアの名も、ロマニアつまり「ローマ人の国」から来ている。言語もラテン系である。
 ルーマニアは大きくわけて、次の三つの歴史的地域がある。
  • ワラキア トランシルヴァニア山脈の南側、ドナウ川に挟まれた、ワラキア公国があった地域。中心はブカレスト。
  • モルダヴィア カルパティア山脈の東側、プルート川まで。モルダヴィア公国はそのさらに東の現在のモルドバ共和国、ドニェストル川までを含んでいた。
  • トランシルヴァニア トランシルヴァニア山脈の北、カルパティア山脈の西。属州ダキアに含まれていたが、長くハンガリー領でありルーマニアには含まれていなかった。第一次世界大戦後の1920年にルーマニア領となった。
 それ以外にもドナウ川と黒海に挟まれたドブロジャも歴史的には重要な地域である。このうち、前近代のルーマニア国家を構成したのはワラキアとモルダヴィアであり、この二公国が統一されて1861年にルーマニア公国が成立した。ワラキアとモルダヴィアはギリシア正教であったが、トランシルヴァニアはローマカトリック教会に従っており、しかも1920年までハンガリー領だった。現在はこれらがルーマニアとして一国を構成しているが、歴史的・宗教的に違った経過をたどっており、人種的にもトランシルヴァニアには現在もハンガリー系の住民が多いなど、複雑な問題を抱えている。

(1)前近代のルーマニア

属州ダキア

 ドナウ川以北のバルカン半島北部には、一説には、紀元前8世紀にインドヨーロッパ語系のダキア人が定住し、ローマの支配が及んだことでダキア・ローマ人が形成され、それが現在のルーマニア人の起源とされている。前70年に統一国家が形成されたが、この年は現在もルーマニア建国の年とされ、1980年には建国2050年祭が挙行されている。ついで紀元後106年にローマ帝国の属州としてのダキアがおかれた(ルーマニアという地名も「ローマ人の国」の意味)。属州ダキアはワラキアとトランシルヴァニアを含んでいたが、モルダヴィアは含まれていなかった。

ワラキアとモルダヴィア

 3世紀の後半、ゲルマン人の大移動の時期が始まり、271年にローマ軍は撤退し、ダキア・ローマ人はカルパチア山脈からドナウ川沿岸にかけて分散して居住するようになった。4世紀以降は資料が少なく、不明な点が多いが、9世紀頃からワラキアにはブルガリアを通じてギリシア正教の布教活動が始まり、地方権力も生まれていったものと思われる。13世紀のモンゴルの支配を受けた後、14世紀ごろににはワラキア公国モルダヴィア公国という二つの公国が成立した。ただし、いずれも西のハンガリー王国と北のポーランド王国という強国に常に脅かされていた。この二公国を「ドナウ二公国」ともいう。

オスマン帝国の属国となる

 1395年、ドナウ川を越えて北上してきたオスマン帝国バヤジット1世によってワラキアが征服され、さらに1420年にモルドヴィアも征服された。オスマン帝国は、ドナウ川以南の現在のブルガリアなどは直轄地として支配したが、以北の地域に関しては直轄地とはせず、宗主権をもち一定の貢納だけを条件にして自治を与えた。
 15世紀には、ワラキア公国ではヴラド串刺公、モルダヴィア公国にはシュテファン大公などが現れ、それぞれオスマン帝国の支配に抵抗している。しかし、いずれもオスマン帝国の最盛期であるメフメト2世の攻勢の前に、15世紀末にはオスマン帝国を宗主国として貢納の義務を負わされ、形式的にはその属国として従属させられた。
ドラキュラ伝説の故郷 こうしてワラキアとモルドヴィアはオスマン帝国の属国となったが、たびたびオスマン帝国に抵抗した。ワラキア公国のヴラッド=ツェペシュ串刺公(在位1448~1476)が最も激しく抵抗した公として知られており、その強烈な個性が、後にドラキュラ伝説を生んだ。 → ワラキア公国の項を参照。

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(2)ルーマニア王国の成立

ローマ時代の属州ダキアの地に生まれたワラキアとモルダヴィアの二公国は長くオスマン帝国を宗主国としていたが、19世紀初めに南下したロシアに征服され保護国となった。クリミア戦争でロシアが敗れた後、オスマン帝国の宗主権が復活したが、次第に統一と独立を求める運動が強まり1861年までに実質的統一を獲得した。その後、1878年、露土戦争後のベルリン条約で独立承認された。

ロシアの南下

 19世紀にはいるとロシアの南下政策が及んできた。ロシア軍は何回かに渡るロシア=トルコ戦争でオスマン軍を排除し、1828年にワラキア、モルダヴィアはこんどはロシアの保護国となった。その保護のもとで近代化が進められたが、同時に自由と統一、独立を求める運動も起こり、1848年革命の「諸国民の春」と言われた動きはこの地にも及んだ。しかし、他の諸民族と同じように、ここでもロシア軍によって運動は鎮圧されてしまった。
 クリミア戦争でロシアが敗れたことは、ワラキア・モルダヴィアが独立する好機となった。戦争後のパリ講和会議の結果、1856年のパリ条約が締結されると、国際的にもロシアの南下を抑えることで他の列強が合意し、ワラキアとモルダヴィアからロシア軍は撤退、保護国であることは解消された。しかし列強はその独立は認めず、オスマン帝国の宗主権の下での自治公国であると認めるにとどまった。

ルーマニアの統一と独立

 ワラキアとモルダヴィアの「ドナウ二公国」は、同じくローマ時代のダキア人の子孫であり、ラテン系のルーマニア語を話し、ギリシア正教を信仰しているという共通性から、早くから統一を求める運動が起こっていたが、ようやく1859年には二公国は同一の公としてクザ公を指名、事実上の統一をはたした。オスマン帝国も1861年11月に勅令をもってそれを承認、ここに一人の公のもとで統一政府・統一議会をもつ国家として二公国は最終的に統一してルーマニア自治公国が成立した。
 しかし、クザ公が自由主義的な改革を進めることに反対する勢力も根強く、国内対立が深まり、1866年にクザ公は退位に追いこまれ、プロイセンのホーエンツォレルン家のカール(ルーマニア名カロル)を公として迎え、31年のベルギー憲法をモデルにした憲法を制定した。

ルーマニア王国

 クリミア戦争の敗北で一時後退したロシアの南下運動は、1870年代から再び活発になった。アレクサンドル2世は農奴解放などの改革を行って近代化に努め、国力の回復を図った上でパン=スラヴ主義をかかげ、1877年~78年の露土戦争(ロシア=トルコ戦争)を開始、オスマン帝国軍を圧倒してサン=ステファノ条約を締結、それによってルーマニア公国のオスマン帝国の宗主権が否定され、独立が認められた。このロシアの急膨張はオーストリアを刺激し、ドイツ帝国のビスマルクが仲介して開催されたベルリン会議において調整され、改めてベルリン条約が締結されたが、ルーマニア王国についてはそのまま承認された。

(3)世界大戦とルーマニア王国

1916年に連合国側として第一次世界大戦に参戦し、戦後に領土を拡大した。ファシストのアントネスクが独裁権力を握りドイツに接近、第二次世界大戦に枢軸側として参戦した。

第一次世界大戦

 バルカン問題が火を噴き、バルカン戦争(第2次)が起きると、ルーマニア王国はセルビア・ギリシア側についてブルガリアと戦い、南ドブルジャを獲得した。
 第一次世界大戦では当初中立を表明したが、両陣営から戦後の領土拡張をえさに盛んに勧誘を受け、結局はイギリス・フランス・ロシアに強制される形で、1916年8月に連合国(協商国)側に参戦した。その際、連合国は、ルーマニアに対して、戦後のトランシルヴァニア、バナート、ブコヴィナの獲得を約束していた。ここにも領土膨張欲から世界戦争に加わった悪例が見られる。
 しかしルーマニアはその位置から、ドイツ、オーストリア=ハンガリーとブルガリア、トルコ軍に南北を挟まれていたため苦戦が続き、同年秋には、オーストリア軍が首都ブカレストを占領し、停戦に追いこまれた。さらにロシア革命によってロシアが戦線を離脱したため、講和に応じざるを得なくなり、1918年5月に講和が成立した。ルーマニア占領は同盟国側の数少ない勝利の一つとなったが、18年秋に戦況が逆転したためルーマニアは再び協商側に参戦、戦後の講和会議には戦勝国として参加できた。

戦勝国として領土拡張

 その結果1920年6月、ルーマニアは、トリアノン条約によってハンガリー王国からトランシルヴァニアを獲得し、ロシアからはベッサラビア(現在のモルドバ)などに領土を拡大し、面積では13万7千平方kmから29万4千平方km、人口では763万から1550万人へと一挙に倍増し、「大ルーマニア王国」を実現させた。しかし国内の工業化、近代化は遅れ、王政も安定しなかった。また獲得したトランシルヴァニアにはルーマニア人の他にハンガリー人やドイツ系入植者、ロマといわれる少数民族もいて、複雑な民族問題を抱えることとなった。

ファシズムの台頭

 ルーマニア王国は第一次世界大戦で戦勝国となったが、カロル2世の王政のもとで、左右両派の対立、周辺諸国の領土回復要求などで安定しない状態が続いた。その中から、ルーマニアにもファシズムが勢力を伸ばした。

アントネスク政権、枢軸国に加わる

 第二次世界大戦では当初は中立策をとったが、「鉄衛団」というファシスト組織と結んだアントネスク将軍は国王を退位させ、新国王ミハイをたて自らは首相となった。1941年にアントネスク軍部独裁政権が成立、アントネスクは、ヒトラーと結んで枢軸国として参戦した。しかい、ドイツの対ソ戦に協力させられ、最前線でルーマニア軍が立たされることと成り、大きな損害を被った。

用語リスト 15章1節15章2節

(4)ルーマニア人民共和国の成立

第二次世界大戦末期、ソ連軍によって解放される形となり、戦後は共産党が権力を握り、1947年、社会主義国として人民共和国を樹立。

共産政権の成立

 1944年にソ連軍がドイツ軍を追ってルーマニアに入ると、国王は近衛師団と国民民主ブロックを結成した政党と協力し、アントネスク将軍を逮捕、ソ連と休戦協定を結んで対独宣戦を布告した。1945年に左派政権が成立し、1946年11月総選挙では共産党を中心とした統一ブロックが激しい選挙干渉で保守派を圧倒した。
 1947年2月の第二次世界大戦後の連合国とのパリ講和条約ではソ連に対して賠償金とともにベッサラビア(現在のモルドバ)そのほかの移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、360万以上の人口を失った。
 その後、共産党以外の政党は次々と解散させられ、1947年12月30日には国王ミハイが退位し、ルーマニア人民共和国の成立が宣言された。

ソ連への傾斜

 ルーマニア共産党はコミンフォルムに加盟し、ソ連の衛星圏として東ヨーロッパ社会主義圏を構成することとなった。1948年、共産党は社会民主党左派を吸収して労働者党となる。1949年には他の東欧諸国とともにコメコン(経済相互援助会議)を結成した。ソ連軍によって解放されたという経緯から、ソ連の影響力が強く、スターリン体制への傾斜を強め、1951年からはソ連にならった五カ年計画を実施し、工業化・集団化・重工業化・産業国有化・土地改革を進めた。1955年に結成されたワルシャワ条約機構にも加盟し、ソ連の衛星国家に組み込まれた。

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(5)ルーマニアの自主路線

1956年のスターリン批判を機に、ソ連から離れ、独自の社会主義路線、自主外交を展開。70年代、チャウシェスクの独裁色強まる。

独自路線への転換

 ソ連の強い指導に服して社会主義化を進めながら、ルーマニア労働者党の内部の激しい権力闘争が展開され、次第にゲオルギウ=デジの主導権が強まった。1956年のソ連のスターリン批判後、デジ政権は独自の工業化路線をとるようになり、ソ連のフルシチョフ政権のコメコンによる経済統制に反発、60年から独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富な石油資源を積極的に生かしていこうというものであった。

チャウシェスクの自主路線と独裁

 1965年にデジが死去し、チャウシェスクが後継者となり、独自路線と多面外交を継承した。一方で同年、党名を共産党にもどし、国名はルーマニア社会主義共和国に改めてその独裁的権力を強めた。チャウシェスクはソ連よりの外交を改めて自主外交を展開、特に1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、68年のチェコ事件に際してはソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。

チャウシェスク独裁

 その後チャウシェスク独裁体制は次第に強化され、74年の大統領就任ごろから個人崇拝の強要がなされ、国民の自由が抑圧されるようになり、1989年に東欧革命の嵐が起きるとルーマニアでも民衆暴動となり、チャウシェスクは捕らえられて形式的な裁判だけで処刑されるという劇的な終末を迎えた。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書 などによる>

(6)ルーマニアの民主化と現在

東欧社会主義圏の中でルーマニアはチャウシェスクによる独裁政治が行われていたが、1989年に民衆暴動が発生、民主化が達成された。

 ルーマニアは東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している。東ヨーロッパの大国。面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。民族の大半はルーマニア人。西北部のトランシルヴァニア地方にはハンガリー人がいる。言語のルーマニア語はインド=ヨーロッパ語のラテン語系。首都はブカレスト。

チャウシェスク大統領の最後

 チャウシェスクの個人崇拝の強制、同族支配(ネポティズム)などの独裁制の弊害が明らかになり、経済の停滞とともに独裁体制に対する反感が強まった。東欧革命の嵐が吹き荒れた1989年12月、ティミショアラで起こった民衆暴動をきっかけに首都ブカレストでも暴動が起こり、大統領夫妻はヘリコプターで官邸を脱出したが、着陸したところを捕らえられ、即席の軍事裁判で死刑が宣告され、夫妻とも銃殺された。
 こうして1965年から23年に及ぶチャウシェスク政権は崩壊、イリエスクを中心に組織され、複数政党制・自由選挙・経済改革などのルーマニア革命を推進した。

現在のルーマニア

 チャウシェスク政権が倒された後、1990年1月には共産党の活動が禁止されたが、「救国戦線」のイリエスク政権に対し、旧共産党員が残っているなど、民主化が不徹底であると主張する学生たちが座り込みなどで抗議した。イリエスクは炭鉱労働者を動員して学生を排除し、運動を押さえた。このようにルーマニアの改革は不徹底な面が指摘されている。1992年は初の大統領選挙が行われてイリエスクが当選。その後中道左派を標榜し、中道右派と交互に政権を担当した。2004年にはNATOに加盟、また2007年1月にはEUに加盟して、西ヨーロッパよりの姿勢が明確となった。
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柴宜弘
『図説バルカンの歴史』
2015 河出書房新社