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ルーマニア/ルーマニア人

2世紀の初めローマの属州ダキアとなり、後にルーマニアと言われるようになる。14世紀にはモルダヴィアとワラキアの二国家を形成。14世紀からオスマン帝国の支配を受ける。

 ルーマニアの起源は諸説あるが、一般にはローマ帝国のトラヤヌス帝の時に征服され、属州としてのダキアとなったところから始まるとされている。それ以来のローマ人が、スラヴ人と同化してルーマニア人が形成されたといわれる。ルーマニアの名も、ロマニアつまり「ローマ人の国」から来ている。言語もラテン系である。
 9世紀頃から地方権力を建てるようになり、13世紀のモンゴルの支配を受けた後、14世紀にはワラキア公国モルダヴィア公国という二つの公国を創った。いずれも14世紀末にはオスマン帝国が進出してきて、15世紀にはそのメフメト2世の支配を受けることとなる。

Episode 吸血鬼ドラキュラの故郷

 ワラキア公国のヴラド串刺公(在位1448…1476)は、オスマン軍の侵入と戦った英雄であったが、捕虜や裏切り者の貴族を串刺しの刑にするなど、残虐な面があった。彼をモデルに、19世紀にアイルランドの作家ブラム=ストーカーがバルカン半島に残る吸血鬼伝説と結びつけて「吸血鬼ドラキュラ」を創作した。
 → (1)ルーマニア王国の成立  (2)世界大戦とルーマニア王国  (3)ルーマニア人民共和国の成立  (4)ルーマニアの自主路線  (5)ルーマニアの民主化と現代

ルーマニアの歴史

 古代にはローマの属州ダキアがおかれた(ルーマニアもローマ人の国の意味)。中世には13世紀のモンゴルの支配の後、14世紀にはモルダヴィア公国・ワラキア公国という二つの公国を創った。いずれも14世紀末にはオスマン帝国のバルカン進出によってその支配を受けるようになった。19世紀にはいるとロシアの南下政策が及んできて、その保護のもとで近代化が進められたが、1848年以降は民族独立の気運が高まり、クリミア戦争後の1856年のパリ条約でモルダヴィアとワラキアの自治が認められ、両国は59年に統一し、1866年には統一国家名としてルーマニア公国を掲げた。ルーマニアは露土戦争後の1878年に独立が認められルーマニア王国となった。第1次世界大戦のルーマニアは戦勝国となったため、領土と人口が一挙に倍増(西北部のトランシルヴァニアをハンガリーから獲得)し、東欧の大国となった。しかし国内の工業化、近代化は遅れ、王政も安定せず、第2次世界大戦のルーマニアは、1941年には軍事独裁政権が登場、ドイツ側で参戦した。末期にソ連軍が侵攻してドイツ軍から解放され、その結果、王政は廃止されて47年にルーマニア人民共和国となった。戦後はソ連の衛星国として東欧社会主義圏を形成、コメコンワルシャワ条約機構の構成国となり、スターリン体制を受け入れて工業化を進めたが、1956年のスターリン批判を機に独自路線に転換、ゲオルギウ=デジ政権は西側とも接近し、コメコンの経済統制に反対するようになった。1965年にデジ政権を継承したチャウシェスクは、民族主義を掲げて一方、デジの独自外交をさらに拡大しながら独裁権力を握った。

(1)ルーマニア王国の成立

黒海の西側に位置し、1878年、露土戦争後のベルリン条約で独立承認される。

 ルーマニアはルーマニア人が多数を占めるが、トランシルヴァニアにはハンガリー人が多数居住し、ドイツ系入植者や、ロマという少数民族も含んでいる。オスマン帝国の宗主権の下で、モルダヴィアワラキアの二公国が次第に自治権を獲得していった。
 19世紀以降ロシアの影響が強まり、近代的な国家制度の下で両公国の統合要求が強まり、クリミア戦争後の1856年のパリ条約でモルダヴィア(このときベッサラビアも獲得)とワラキアの自治が認められ、さらに1859年に両国は統一を実現し、1866年には正式にルーマニア公国となった。露土戦争後の1878年のサン=ステファノ条約でオスマン帝国からの独立が認められ、さらにベルリン条約での正式にルーマニア王国となった。

(2)世界大戦とルーマニア王国

1916年に連合国側として第一次世界大戦に参戦し、戦後に領土を拡大した。ファシストのアントネスクが独裁権力を握りドイツに接近、第二次世界大戦に枢軸側として参戦した。

第一次世界大戦

 バルカン問題が火を噴き、バルカン戦争(第2次)が起きると、ルーマニア王国はセルビア・ギリシア側についてブルガリアと戦い、南ドブルジャを獲得した。
 第一次世界大戦では当初中立を表明したが、両陣営から戦後の領土拡張をえさに盛んに勧誘を受け、結局はイギリス・フランス・ロシアに強制される形で、1916年8月に連合国(協商国)側に参戦した。その際、連合国は、ルーマニアに対して、戦後のトランシルヴァニア、バナート、ブコヴィナの獲得を約束していた。ここにも領土膨張欲から世界戦争に加わった悪例が見られる。
 しかしルーマニアはその位置から、ドイツ、オーストリア=ハンガリーとブルガリア、トルコ軍に南北を挟まれていたため苦戦が続き、同年秋には、オーストリア軍が首都ブカレストを占領し、停戦に追いこまれた。さらにロシア革命によってロシアが戦線を離脱したため、講和に応じざるを得なくなり、18年5月に講和が成立した。ルーマニア占領は同盟国側の数少ない勝利の一つとなったが、18年秋に戦況が逆転したためルーマニアは再び協商側に参戦、戦後の講和会議には戦勝国として参加できた。

戦勝国として領土拡張

 その結果ルーマニアは、トリアノン条約によってハンガリー王国からトランシルヴァニアを獲得し、ロシアからはベッサラビア(現在のモルドバ)などに領土を拡大し、面積では13万7千平方kmから29万4千平方km、人口では763万から1550万人へと一挙に倍増し、「大ルーマニア王国」を実現させた。

ファシズムの台頭

 ルーマニア王国では第一次世界大戦で戦勝国となったが、カロル2世の王政のもとで、左右両派の対立、周辺諸国の領土回復要求などで安定しない状態が続いた。その中から、ルーマニアにもファシズムが勢力を伸ばした。

アントネスク政権、枢軸国に加わる

 第二次世界大戦では当初は中立策をとったが、「鉄衛団」というファシスト組織と結んだアントネスク将軍は国王を退位させ、新国王ミハイをたて自らは首相となった。1941年にアントネスク軍部独裁政権が成立、アントネスクは、ヒトラーと結んで枢軸国として参戦した。しかい、ドイツの対ソ戦に協力させられ、最前線でルーマニア軍が立たされることと成り、大きな損害を被った。

(3)ルーマニア人民共和国の成立

第二次世界大戦末期、ソ連軍によって解放される形となり、戦後は共産党が権力を握り、1947年、社会主義国として人民共和国を樹立。

共産政権の成立

 1944年にソ連軍がドイツ軍を追ってルーマニアに入ると、国王は近衛師団と国民民主ブロックを結成した政党と協力し、アントネスク将軍を逮捕、ソ連と休戦協定を結んで対独宣戦を布告した。1945年に左派政権が成立し、1946年11月総選挙では共産党を中心とした統一ブロックが激しい選挙干渉で保守派を圧倒した。
 1947年2月の第二次世界大戦後の連合国とのパリ講和条約ではソ連に対して賠償金とともにベッサラビア(現在のモルドバ)そのほかの移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、360万以上の人口を失った。
 その後、共産党以外の政党は次々と解散させられ、1947年12月30日には国王ミハイが退位し、ルーマニア人民共和国の成立が宣言された。

ソ連への傾斜

 ルーマニア共産党はコミンフォルムに加盟し、ソ連の衛星圏として東ヨーロッパ社会主義圏を構成することとなった。1948年、共産党は社会民主党左派を吸収して労働者党となる。1949年には他の東欧諸国とともにコメコン(経済相互援助会議)を結成した。ソ連軍によって解放されたという経緯から、ソ連の影響力が強く、スターリン体制への傾斜を強め、1951年からはソ連にならった五カ年計画を実施し、工業化・集団化・重工業化・産業国有化・土地改革を進めた。1955年に結成されたワルシャワ条約機構にも加盟し、ソ連の衛星国家に組み込まれた。

(4)ルーマニアの自主路線

1956年のスターリン批判を機に、ソ連から離れ、独自の社会主義路線、自主外交を展開。70年代、チャウシェスクの独裁色強まる。

独自路線への転換

 ソ連の強い指導に服して社会主義かを進めながら、ルーマニア労働者党の内部の激しい権力闘争が展開され、次第にゲオルギウ=デジの主導権が強まった。1956年のソ連のスターリン批判後、デジ政権は独自の工業化路線をとるようになり、ソ連のフルシチョフ政権のコメコンによる経済統制に反発、60年から独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富な石油資源を積極的に生かしていこうというものであった。

チャウシェスクの自主路線と独裁

 1965年にデジが死去し、チャウシェスクが後継者となり、独自路線と多面外交を継承した。一方で同年、党名を共産党にもどし、国名はルーマニア社会主義共和国に改めてその独裁的権力を強めた。チャウシェスクはソ連よりの外交を改めて自主外交を展開、特に1967年に西ドイツと国交を樹立して世界を驚かせ、68年のチェコ事件に際してはソ連の要請を拒否して軍を派遣しなかった。

チャウシェスク独裁

 その後チャウシェスク独裁体制は次第に強化され、74年の大統領就任ごろから個人崇拝の強要がなされ、国民の自由が抑圧されるようになり、1989年に東欧革命の嵐が起きるとルーマニアでも民衆暴動となり、チャウシェスクは捕らえられて形式的な裁判だけで処刑されるという劇的な終末を迎えた。<木戸蓊『激動の東欧史』1994 中公新書 などによる>

(5)ルーマニアの民主化と現在

東欧社会主義圏の中でルーマニアはチャウシェスクによる独裁政治が行われていたが、1989年に民衆暴動が発生、民主化が達成された。

 ルーマニアは東ヨーロッパ、バルカン半島の西部、北にウクライナ、西にハンガリーとセルビア、南にドナウ川をはさんでブルガリア、東にモルドバおよび黒海に面している。東ヨーロッパの大国。面積は約24万平方kmで日本の本州とほぼ同じ。民族の大半はルーマニア人。西北部のトランシルヴァニア地方にはハンガリー人がいる。言語のルーマニア語はインド=ヨーロッパ語のラテン語系。首都はブカレスト。

チャウシェスク大統領の最後

 チャウシェスクの個人崇拝の強制、同族支配(ネポティズム)などの独裁制の弊害が明らかになり、経済の停滞とともに独裁体制に対する反感が強まった。東欧革命の嵐が吹き荒れた1989年12月、ティミショアラで起こった民衆暴動をきっかけに首都ブカレストでも暴動が起こり、大統領夫妻はヘリコプターで官邸を脱出したが、着陸したところを捕らえられ、足跡の軍事裁判で死刑が宣告され、夫妻とも銃殺された。
 こうして1965年から23年に及ぶチャウシェスク政権は崩壊、イリエスクを中心に組織され、複数政党制・自由選挙・経済改革などのルーマニア革命を推進した。

現在のルーマニア

 チャウシェスク政権が倒された後、1990年1月には共産党の活動が禁止されたが、「救国戦線」のイリエスク政権に対し、旧共産党員が残っているなど、民主化が不徹底であると主張する学生たちが座り込みなどで抗議した。イリエスクは炭鉱労働者を動員して学生を排除し、運動を押さえた。このようにルーマニアの改革は不徹底な面が指摘されている。1992年は初の大統領選挙が行われてイリエスクが当選。その後中道左派を標榜し、中道右派と交互に政権を担当した。2004年にはNATOに加盟、また2007年1月にはEUに加盟して、西ヨーロッパよりの姿勢が明確となった。