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コヴィリャン

1488年、ヴァスコ=ダ=ガマより早く、地中海経由でインドに到達したポルトガル人。

 ポルトガル王のジョアン2世が、エチオピアにいると考えたプレスター=ジョンと会見させることと、インド到達という二重の目的で、地中海ルートで派遣した二組の使節の内の一人。パイヴァと共に東方に向かった。なおもう一組は、アフリカの南端を回航してインドに達することを命じられた、バルトロメウ=ディアスであった。コヴィリャンは1488年にインドに入り、カリカットやゴアに滞在した。ディアスはアフリカ南端から引き返してインドには到達できなかったので海路での最初のインド到達は1498年のヴァスコ=ダ=ガマとなるが、コヴィリャンはそれよりも10年も早く、最初にインドに入ったポルトガル人となった。

Episode ガマより先にインドに到達したポルトガル人

 ポルトガル王ジョアン2世が、エチオピアにいると考えたプレスター=ジョンとの会見とインド到達という二重の目的で派遣されたのが、ペーロ=ダ=コヴィリャンとアフォンソ=ダ=パイヴァの二人だった。コヴィリャンは北アフリカ滞在が長くアラビア語に堪能だった。1487年出発した二人はアレクサンドリアを経てカイロに到達、ムーア人の商人団に加わってダウ船で紅海を下り、アデンに行った。そこで二人は別れ、パイヴァはエチオピアを目指し、コヴィリャンはインドを目指した。1488年春、コヴィリャンはインドのカノナール港に着き、インドに足を踏み入れた最初のポルトガル人となった。そこからマラバール海岸を南に下り、当時もっとも商業がさかんだったカリカットに入った。そこでインド洋の季節風を利用したアラビアとの香辛料、宝石、陶磁器などを満載した船による交易が行われていることを知った。さらに馬の市がたつゴアにも足を伸ばしている。その後、ホルムズにわたり、1489年にはアラビアと東アフリカ沿岸を船で南下、ソファラに達した。その地で東アフリカとインドを結ぶ交易が行われていることを確信し、そのことをジョアン2世に報告すべく、帰国の途に就く。
 1490年にカイロに着いたがそこでパイヴァが死んでしまったことを知った。パイヴァの代わりにジョアン2世がコヴィリャンの消息を得ようとして派遣した二人のユダヤ系ポルトガル人にあう。ジョアン2世の命令は必ずエチオピアに入りプレスター=ジョンに面会せよ、というものだった。やむなくコヴィリャンはそれまでの報告書を二人の使者に託し、自らはエチオピアを目指した。なお、この報告はポルトガルに届けられ、後のヴァスコ=ダ=ガマの航海の計画と実施に計り知れぬ貢献をする。
 コヴィリャンは再びアデンに赴き、そこからイスラーム教徒の服装をしてメッカに行った。さらにメディナからシナイ山へ赴き、その地の聖カタリナ修道院で5年ぶりのキリスト教の礼拝を聴聞した。1493年についにプレスター=ジョンの国エチオピアに達し、コヴィリャンはそこで30年も生きた。彼はエチオピアの皇帝にすっかり気に入られ、その国を離れることが許されなかったのだ。1520年、ロドリゴ=デ=リマがアビシニアに大使として派遣されたとき、既に初老となったコヴィリャンはアフリカ風になってはいたが、大使に自らの生涯の話を物語るべく宮廷に顔を出した。<ペンローズ『大航海時代』荒尾克己訳 筑摩書房 p.60-63>
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ノートの参照
8章1節 ア.大航海時代
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ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』
ボイス・ペンローズ/荒尾克己訳『大航海時代』
1985 筑摩書房