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メッカ

アラビアの紅海に近い商業都市。ムハンマドが生まれ、メディナに逃れた後、メッカを奪還し、カーバ神殿をイスラーム教の聖地とした。

 アラビア半島の西部、紅海沿岸のヒジャーズ地方の中心都市として商業で繁栄した都市。古来、アラビア半島南端のイエメン地方で栄えていたサバー王国やヒムヤル王国と、半島北部につながるシリアや地中海沿岸とを結ぶ交易路の中継地としてにぎわっていた。特に、6世紀のササン朝ペルシアビザンツ帝国の抗争によって絹の道および紅海ルートが衰退すると、アラビア半島西南部ルートがそれに代わって東西交易の動脈となり、メッカはその中継都市として重要さを増した、と言われている。

メッカの繁栄

(引用)ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の衝突によって、アジア大陸を横断するシルクロードとペルシア湾からユーフラテス川をさかのぼる河川ルートは、両国の国境地帯で途絶した。メッカの商人はこの機をとらえて交易を発展させ、ときにはラクダ2500頭、護衛と付き添いの数300人の隊商が派遣された例も知られている。彼らは、アラビアの乳香、没薬、皮製品などのほかに、インド・東南アジアの香辛料(胡椒、丁字、ショウガなど)、アフリカの金、象牙、奴隷などをシリアにもたらした。ムハンマドが生まれ育ったころのメッカは、このような商業活動の著しい進展によって、社会の秩序や人びとの価値観がはげしく移り変わっていく時代にあたっていたのである。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.40>

ムハンマドの登場

 メッカには部族神を祭るカーバ神殿があり、アラブ人の民族宗教の聖地でもあった。このカーバ神殿の管理権を持ち、手広く商業に従事して繁栄していたのがクライシュ族であり、その一族からムハンマドが出現した。ムハンマドは神の啓示を受けてアッラーへの帰依を説きはじめたが、はじめはメッカの保守的な大商人層に迫害され、622年にメディナに逃れイスラーム教を創始した。630年メッカを武力で奪回し、カーバ神殿の偶像を破壊した。こうしてメッカはイスラームの宗教的中心地となった。政治の中心はムハンマドとその後継者の正統カリフ時代はメディナとされ、ウマイヤ朝ではダマスクス、アッバース朝ではバグダードに移るが、メッカの聖地としての重要性は変わっておらず、現代においてもメッカはメディナイェルサレムと並んで、三大聖地の一つとして多数の信者の巡礼を集めている。

ムハンマドのメッカ征服

 ムハンマドがメッカを征服したときの状況を井筒俊彦氏の『マホメット』から引用しよう。
(引用)「勝利が決定的になったのは西暦630年のこと。この年の1月(イスラーム式に言えばヒジュラ紀元第八年ラマダーン月)、メッカ市民はそれ以上抵抗することの無意義を悟ってついに市門を開いて降伏し、マホメットは堂々と勝者の資格で入城した。八年ぶりで故郷に還った預言者は感慨無量だった。出るときは一瞬先の生命すらわからぬ哀れな脱走者、帰るときは凱旋将軍だ。一休みした後、彼は身を浄め、完全に武装したままアブー・バクルを伴って聖殿カアバに出かけて行く。聖殿に着くと彼は先ず手にした杖で黒石に触れ(この行為には呪術的な意義がある)次いで大声で「アッラー・アクバル」(神は至大なり!)を唱え出す。聖殿を取巻いていた軍隊も一斉にそれに唱和し、囂々と天地もとよもすばかりの大合唱となって響き渡るのだ。次にマホメットは駱駝に跨ってカアバを一巡し(聖域のまわりを巡廻することも呪術的行為)駱駝を下りて聖殿の鍵を要求する。そしてカアバの内外に祀られていた数百の偶像を叩き壊し、特に聖殿正面入口に鎮座する有名なフバル神の像には凄まじい怒りの手を振り上げて粉微塵にしてしまう。
 散乱する偶像どもの破片残骸の只中に立ち、カアバの戸柱に背をもたせかけて、マホメットは参集して来た信徒たちに宣言する。「今や異教徒時代は完全に終わりを告げた」と。「従って、異教徒時代の一切の『血』の負目も貸借関係も、その他諸般の権利義務も今や全く精算されてしまったのである。また同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない。諸君は全てアダムの後裔として平等であって、もし諸君の中に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さにのみ依って決まるのである」と。カアバの鍵を手に握ったままこの言葉を会衆に告げるマホメットの心はどんなに晴れがましく、そしてどんなに得意だったことだろう。それは輝かしい勝利の日であった。」<井筒俊彦『マホメット』1947 講談社学術文庫 p.107>

アッバース朝以降のメッカ

 661年にウマイヤ朝が成立すると政治の中心はダマスクスに移り、さらに750年のアッバース朝からはバグダードがイスラーム世界の中心とされるようになったが、メッカはメディナとともに二聖都として重要であった。アッバース朝が衰え始めた10世紀中ごろから、4代目カリフのアリーの子孫(つまりムハンマドの子孫)を意味するシャリーフといわれる家系のものが代々のメッカ市政を担当するようになった。これをシャリーフ政権という。このシャリーフ政権は、10世紀後半から、カイロを都としたファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝というエジプトのイスラーム王朝に支配される状態が続いた。1517年にはマムルーク朝を倒したオスマン帝国セリム1世がメッカ・メディナの二聖都の保護権を獲得し、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねるという権威付けを行った。

ヒジャーズ王国からサウジアラビア王国へ

 オスマン帝国の治下にあったメッカには、ムハンマドの直系の子孫を自称するシャリーフが、代々の太守(総督ともいう)に任じられていた。第一次世界大戦が起きると、イギリスはオスマン帝国を弱体化させるためにメッカの太守(シャリーフ)であるハーシム家フセイン(フサイン)の独立運動を支援、フセイン=マクマホン協定を結んだ。それによてフセインは独立を宣言、ヒジャーズ王国を建国し、メッカはその首都とされ、フセインもカリフを称してイスラーム世界全体の主導権も得ようとした。しかし、1924年にアラビア半島中部のリヤドを拠点としたイブン=サウードとの争いに敗れてメッカを追放され、サウジアラビア王国が成立するとメッカはその一部のメッカ州の州都とされた。イスラーム教の聖地としての機能は失っておらず、現在でも多数の教徒のメッカ巡礼は続いている。
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ノートの参照
第4章1節 ア.イスラーム教の誕生
書籍案内

井筒俊彦
『マホメット』
講談社学術文庫

佐藤次高
『イスラーム世界の興隆』
世界の歴史 8
1997 中央公論新社