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プレスター=ジョンの伝説

中世ヨーロッパの十字軍時代に盛んになったで東方キリスト教徒伝説。12~14世紀の東西交流の中で生まれた。

 中世ヨーロッパの12世紀、十字軍運動が展開された時代には、遠く離れた東方の世界に、キリスト教徒が住んでいて、その指導者のプレスター=ジョンが、十字軍を助けてイェルサレムをイスラーム教徒から奪回するためにやってくる、という伝説が広く信じられていた。13世紀に突然、東方から姿を現したモンゴルの西方遠征の騎馬部隊を、プレスター=ジョンの軍隊ではないか、と期待したが、彼らはキリスト教徒ではなく、ヨーロッパの町を破壊し、人々を殺戮して帰っていった。
 ヨーロッパ人はモンゴル人を「タルタル人(ギリシア語の地獄を意味するTartarusからきたという)」と呼ぶようになった。モンゴルの征服者がプレスター=ジョンではないことは明らかになったが、その後もローマ教皇インノケンティウス4世やフランス王ルイ9世は元の皇帝との提携を模索して使者を派遣した。また、後の大航海時代の初期のポルトガルのエンリケ皇太子がアフリカ西岸探検を始めたのも、プレスター=ジョンの存在を探る目的もあったという。

伝説の背景

 アジアにキリスト教徒が存在するというのは、おそらくかつて異端として追いやられたネストリウス派のことであり、その点では正しいが、プレスター=ジョンの存在は伝説にすぎない。このような伝説が生まれる背景として、12世紀のカラ=キタイ(西遼)の存在が考えられる。中国北部を支配していた契丹(キタイ=遼)が1125年に金に滅ぼされたとき、その王族の一部が西に走り、1133年に中央アジアにカラ=キタイ(西遼)を建国した。カラ=キタイとは「黒いキタイ」の意味で、英語では Black Cathay といい、ここからヨーロッパの言語に中国を意味するキャセイという言葉が生まれた。カラ=キタイが治めた中央アジア(東西のトルキスタン)には、イスラーム教徒の他に、ネストリウス派のキリスト教徒(イラン系が多かった)やゾロアスター教徒、仏教徒などが混在していた。1142年にカラ=キタイはイラン高原のセルジューク朝スルタンのサンジャルとの間で、サマルカンド郊外のカトワーン草原で戦い、勝利を収めた。このセルジューク朝の敗北が伝説として西方に伝えられたのではないか、と考えられている。<D.モーガン『モンゴル帝国の歴史』1986 角川選書 p.31/NHK取材班『幻の王プレスター・ジョン 世界征服への道』大モンゴル3 NHK>

アフリカのプレスター=ジョン

 15世紀のポルトガルのエンリケからジョアン2世 の時期にいたるアフリカ沿岸の探検は、アフリカの内陸にプレスタージョンの王国があり、その地は豊かな黄金の産地であるという思い込みが背景にあり、その地に到達するというのが動機の一つであった。とくにジョアン2世が派遣したコヴィリャンは陸路でインドに到達した後、アラビア半島からエチオピアに入り、エチオピア皇帝に面会し、そのまま現地にとどまって生涯を終えるという大旅行をしている。
 このエンリケ王子やジョアン2世のアフリカ探検熱は、大航海時代の到来をもたらした。ポルトガル船は次々とアフリカ西岸南下し、1488年のバルトロメウ=ディアスによる喜望峰につながり、さらにヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓の成功となった。
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ノートの参照
第6章3節 ウ.モンゴル時代のユーラシア
8章1節 ア.大航海時代
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ゴードン
『モンゴル帝国の歴史』
角川選書 

NHK取材班
『幻の王プレスター・ジョン 世界征服への道』
大モンゴル3 NHK