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ヴァスコ=ダ=ガマ

ポルトガルの航海者。1498年、インド航路を開拓しカリカットに到達し、大量の香辛料を持ち帰った。1502年の第2回遠征ではカリカットを砲撃、コーチンに砦を築いた。1524年にはゴアでインド総督となった。

ヴァスコ=ダ=ガマ
Vasco da Gama (1469?-1524)
 大航海時代のスペイン王が派遣したコロンブスの西回り航路の発見によって、アジアへの到達が現実のものとなろうとしたため、スペインとポルトガルの両者は1494年のトルデシリャス条約で、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利とする協定を成立させた。そこでポルトガルは東回りでアジアに到達することを急がねばならなくなった。ジョアン2世の時に、すでに陸路によるコヴィリャンの派遣や海路によるバルトロメウ=ディアスの派遣が試みられており、後者による喜望峰到達などによってインド航路開拓の見通しをつけていたポルトガルのマヌエル1世は、1497年7月、ヴァスコ=ダ=ガマを東回りでインドに派遣した。その結果、コロンブスの西インド諸島到達に続く、大きな事績であるインド航路の開拓が開始された。

ヴァスコ=ダ=ガマ

 ガマはポルトガル南部海岸のシネスの役人の子であったが、航海者としての実績は判っていない。当初はディアスが船団編成の責任者となったが、結局ガマが司令官となり、ディアスは途中のギニア突出部まで同行し、そこからエルミナに向かったところをみると、ガマは既に相当の実績を持つ人物だったと考えられる。その船団にはディアスの航海に加わっていたベテランの船乗りも加わり、またスペイン系ユダヤ人アブラハム=ザクートは天体観測の実習を乗組員に施したり、「万年暦」や赤緯表など遠洋航海術で協力した。

ガマの航海

 ガマ船団は旗艦サン・ガブリエル(横帆式)にサン・ラファエル(同)、ペリオ(大三角帆式カラベル船)に補給船の4隻編成。1497年7月8日にテージョ川を離れた。
・大西洋の大圏航路を採る その航路は従来とは異なり、陸地沿いではなく大西洋をまっすぐ南下するという大圏航路を取るという大胆なものであった。約3ヶ月の航海で喜望峰の北方に到達、船舶の修理などをした後、喜望峰を回航してインド洋に入った。
・インド洋の横断 アフリカ東岸を壊血病などに悩みながら北上、モザンビークやモンバサではイスラーム教徒である現地人の襲撃を受けたため、砲撃を加えたがマリンディでは歓迎され、アラビア人の水先案内人であるイブン=マージドを雇った。彼はインドのグジャラートの生まれて、インド洋全域の航海に通じた最高の水先案内人となった。そのため無事にアラビア海の横断に成功、1498年5月20日にインド西岸のマラバール海岸のカリカットに到達した。
※なお、これに先立つ1488年にジョアン2世が派遣したポルトガル人コヴィリャンが地中海からカイロ、アデンなどを経由してカリカットに到達しているので、ヴァスコ=ダ=ガマは最初にインドに到達したポルトガル人、とはならない。また、コヴィリャン自身はエチオピアで死んだが、その報告書はポルトガルにもたらされ、インドやエチオピアに関する貴重な情報源となった。

インドの状況

 ヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達した1498年は、ムガル帝国のインド制圧(1526年)の28年前にあたっている。当時のインドは、北インドとデカン高原にいくつものイスラーム教国があったが、南インドはヒンドゥー教国であるヴィジャヤナガル王国が存在していた。ヴィジャヤナガル王国の統治圏内には多くの小さな藩国があり、互いに争っている状態であった。カリカットはサムリ(ザムリン)という藩王が支配していたが、その地の貿易はイスラーム教徒であるアラビア人やペルシア人に握られていた。彼らイスラーム商人(ムスリム商人、カーリミー商人とも言う)らはダウ船を操り、ホルムズを拠点とし、アラビアのアデン、アフリカ東岸のマリンディやモンバサ、モザンビークとインド西岸のカリカットやセイロン島を結ぶアラビア海の季節風貿易を抑え、香辛料や宝石、奴隷、馬などの交易を行っていた。彼らはさらにベンガル湾からマラッカ海峡までを活動範囲としており、マラッカには中国商人がジャンク船を操ってやって来て、絹織物や陶磁器をもたらし、イスラーム商人と盛んに取引を行っていた。

最初の交易

 そのようなさかんな交易港ではヴァスコ=ダ=ガマのもたらした商品は十分な交易品は質も量も十分な者ではなかった。またイスラーム商人がこの新たな競争相手の出現を警戒してカリカットの藩主に悪意ある宣伝をしたため、取引はうまくいかず、得るものは少なかった。インドへの直接航路が開かれたことは大きな意義があったが、そこで利益を上げるにはイスラーム商人の握っている貿易権を武力で奪う必要があることを実感してガマは1499年9月9日にリスボンに帰着した。

カブラルの航海

 1500年にカブラルがヴァスコ=ダ=ガマの航路を採って南南西に向かい、その途中でブラジルを発見し、一時上陸した。そこから大西洋を横断、喜望峰を回ってインド洋を航海し、カリカットに到着。その南のコチンの領主から大量の香辛料を買い取り、1501年にリスボンに持ち帰った。これがポルトガルの第2回インド派遣艦隊である。

ガマの二回目の航海

 ヴァスコ=ダ=ガマは1502年に2回目のインド航路航海を行い、この時は20隻の船団に兵員を載せ、カリカットに砲撃を加えて上陸し、コーチンに要塞を築いて1522年、帰国してアントウェルペン港に入港し、大量の胡椒をもたらした。その後1524年にはインド総督としてゴアに派遣されて、その年ゴアで死去した。

インド交易の影響

 このカブラルとヴァスコ=ダ=ガマの成功は、一挙に香辛料貿易の中心地が従来のヴェネツィアからリスボンと、そこから香料が運ばれる北西ヨーロッパのアントワープ(現在のベルギーの港市、ハプスブルク家のカール5世の領地)に移るという変動をヨーロッパにもたらした。 → 商業革命 インド航路 ポルトガルのアジア進出  マカオ

Episode ヴァスコ=ダ=ガマの墓

(引用)ジェロニモス修道院は、1502年に国王マヌエル1世がヴァスコ=ダ=ガマのインド航路発見を記念して船団が出発したリスボン郊外のレステロに建設させた修道院である。その華麗な南面ファサードにエンリケ航海王子の像を配した教会とエキゾチックな海洋性を連想させる回廊は、フランス人ボイタックとポルトガル人カスティリョの手になる傑作で、現在内陣にはヴァスコ=ダ=ガマと詩人カモインスの柩が左右に安置されている」。この建築はポルトガルのルネサンス期建築であるマヌエル様式の代表とされる。「ジェロニモス修道院でヴァスコ=ダ=ガマと柩をならべているカモンイスは、ポルトガルを代表する詩人で、アフリカから中国マカオまで放浪した後、その体験を生かしてローマ時代のルシタニア人から筆を起こし、ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路発見の偉業に至るでのポルトガル人の歴史を壮大な叙事詩『ルジアダス』(ルシタニア賛歌。ルシタニアはポルトガルの古名)に描いた。<金七紀男『ポルトガル史』彩流社 p.121-122,119>
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ノートの参照
8章1節 ア.大航海時代
書籍案内

金七紀夫『ポルトガル史』
1996 彩流社