印刷 | 通常画面に戻る |

ジョアン2世

15世紀末のポルトガル王。エンリケ皇太子についで新航路の開拓を勧め、ディアスが到達したアフリカ最南端に喜望峰の名を付けた。

 15世紀末の大航海時代、遠洋航海路の開拓を進めたポルトガル王国王(在位1481~95年)。航海王子といわれたエンリケ(15世紀前半)に続いて、アフリカ西岸探検を進めた。1482年には黄金海岸にエルミナ要塞を建て、奴隷貿易を開始している。1488年に喜望峰に到達したバルトロメウ=ディアスを派遣したのもジョアン2世であった。 → ポルトガルの大航海時代

ジョアン2世の時の航海と探検

  • 1482年 アフリカ海岸でもっとも有名な要塞エルミナを築いた。その名は金鉱を意味し、黄金海岸(現在のガーナ)の中央に位置し、近くに金産地があり、その後も金、象牙、奴隷などの積出港として栄える。特に、黒人奴隷貿易の拠点となったことは重要である。ジョアン2世はギニア地方にエルミナ要塞(現在のガーナ)を築いて拠点とした。
  • またジョアン2世は宇宙形状誌や天文学に非常な興味を示し、海上における位置決定のために才能あふれたユダヤ人ヨセフ・ヴィニショとアブラハム・ザクートを長とする専門委員会を作った。その技術研究の成果として、ヴィシニョはギニア海岸を測量、漸長緯度目盛りの就いた航海図を作成した。この航海にはニュールンベルクの地理学者マルティン=ベハイムが参加していたらしい。
  • この間、ディオゴ・カーンという老練の航海者が2度にわたってアフリカ西岸を探検、コンゴ川(ポルトガル人は土地の人間がつかう、川をいみする言葉エンザディからザイール川と呼んだ)を遡り、標識として石柱を建てた。
  • 1486年 ポルトガルの二番目の商館をベニンに設ける。ベニンの使節から「海岸から20の月の旅をかさねたところ」にオガネといキリスト教徒の王がいる、という情報があり、それこそプレスター=ジョンと確信した。その距離から言って王のいるところはエチオピアであると考え、ジョアン2世はプレスター=ジョン発見とインドへの到達という二重の目的を持った二組の遠征隊を派遣することを決意した。一つは地中海ルートをとるコヴィリャンとパイヴァの遠征隊であり、一つがバルトロメウ=ディアスの艦隊だった。
  • 1488年 バルトロメウ=ディアスが喜望峰到達。インド航路の開拓の見通しがたつ。なおこれより以前にジェノヴァ人コロンブスは、ジョアン2世に大西洋を西回りで航海してアジアに到達できることを説いて、その支援を要請した。しかし、ジョアン2世はディアス船団が喜望峰に到達したことから、東廻りでインド到達が可能と考え、コロンブスの提案を拒否した。
  • 一方、コヴィリャンはカイロ、アデンを経てポルトガル人としては初めて1488年にインドに入り、カルカッタやゴアにも行った後、アフリカ東岸のソファラまで調査してインド洋交易の状況を知った。その後、プレスター=ジョンとの会見をめざしてエチオピアに入り、その地で30年以上過ごしたがポルトガルには戻らなかった。彼の報告書は途中でポルトガルに届けられ、インド洋の情報はジョアン2世にも知られることとなったが、ジョアン2世はその時病を得ており、インド航路の最終的開拓は、次のマヌエル王の時の1498年、ヴァスコ=ダ=ガマに委ねられることとなった。

Episode ジョアン2世の後悔

 1493年の初め、コロンブスは新たな発見をスペイン王に報告するため帰国を急いでいた。往路と異なり北東に進路をとってアゾレス諸島に立ち寄った後、連日荒天に見舞われ、やむなくリスボン港に避難しなければならなかった。コロンブスは若いころからリスボン港をよく知っていたが、このときばかりは自分のリスボン寄港がどんなトラブルになるか不安であった。というのは当時スペインとポルトガルの関係は微妙であったからだ。ポルトガルのジョアン2世はコロンブスの寄港を知り、自分の見通しの悪さを嘆いた。あのとき、コロンブスの言うことを聞いておけば・・・。宮廷のなかにはコロンブスを暗殺しようとした者もいたという。しかし、ジョアン2世は君主としての度量をみせ、コロンブスがスペインに帰国できるよう取りはからったのだった。

トルデシリャス条約

 スペインがコロンブスの航海を成功させたことで、新たに発見された土地がどちらの領土になるのか、問題が生じた。スペインフェルナンド5世はローマ教皇アレクサンドル6世に新発見地でのスペインの領有権を認めるよう訴えた。それに対してジョアン2世は1479年にスペインとの間で締結されていたアルカソヴァス条約では、アゾレス諸島・ヴェルデ諸島を含む東の海域はポルトガル領とすると定められていたので、当然コロンブスはポルトガルの領海を侵犯したと主張した。しかし、1493年の教皇裁定は、スペインの言い分を認めて新発見地をスペインの領土とし、ヴェルデ島の西100レグアとして東をポルトガル領、西をスペイン領とすると言うものだった。この教皇子午線に不満を持ったジョアン2世は、スペインとの直接交渉を行い、1494年に分界線を370レグア西に移動させるトルデシリャス条約を締結した。
 これは最初の植民地分界線となり、ポルトガルは東回りで、スペインは西回りでアジアをめざすこととなった。しかし、当時はまだ判っていなかったとされているが、トルデシリャス条約の分界線は後に発見された南アメリカ大陸に懸かっていたので、ブラジルがポルトガル領となる根拠となった。

死後のポルトガルの発展

 ジョアン2世は1495年に死去、次のマヌエル1世の時代(1495~1521)、1498年のヴァスコ=ダ=ガマ船団のカリカット到達、1500年にはカブラルブラジル発見、1510年のゴアスリランカの征服、11年にはマラッカ王国を滅ぼし、15年にはペルシア湾入り口のホルムズ島を占領、21年には香料諸島として知られるモルッカ諸島に城塞を建設するなど、ポルトガルの海外発展は最高潮に達した。 → ポルトガルのアジア・アフリカ進出