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ミケランジェロ

15~16世紀、フィレンツェとローマで活躍し、ルネサンスを代表する彫刻、絵画、建築を残している。

 本名はミケランジェロ=ブオナロッティ(Michelangelo Buonarroti 1475~1564)。1475年、フィレンツェ近郊の村で役人の子として生まれ、13歳の時、父の反対を押し切ってフィレンツェのギルランダイオという親方の工房に入り、石工となった。メディチ家の管理する古代彫刻庭園(ドナテルロコシモ=ディ=メディチにプランを提出して設けられた)に出入りできるようになり、そこで見た古代の彫刻に見せられるようになり、少しずつ大理石を刻むようになった。そのとき、メディチ家の当主ロレンツォ(イル=マニフィコ)の目にとまり、その館に住み込んで修業することが許された。そこでメディチ家に集まる、フィッツィーノやピコ=デラ=ミランドラなどの著名な人文学者から知的な刺激を受けたようだ。フィレンツェはルネサンスの爛熟期を迎えていた。
 若きミケランジェロは彫刻の前提として人体研究に興味を持ち、18歳ぐらいから人体解剖を始めていることが注目される。同じ頃先輩のダ=ヴィンチも盛んに解剖を行っている。<羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』1939 岩波新書 p.111>
 ロレンツォが死んだ後、1494年にフランス王シャルル8世がイタリアに侵入、イタリア戦争(広義の)が始まる。フィレンツェではサヴォナローラがメディチ家を激しく批判し、追放してしまう。保護者を失った19歳のミケランジェロもフィレンツェを脱出し、ボローニャに逃れた。フィレンツェではサヴォナローラの神権政治が始まる。一旦フィレンツェに戻った後、後に教皇ユリウス2世となる枢機卿に招かれ、1496年にローマに向かった。

24歳のデビュー作 ピエタ

 ローマ滞在中の24歳のミケランジェロが製作した大理石彫刻のピエタは、その生き生きとしたマリアと死せるイエスの像が忽ち評判となり、鮮烈なデビュー作となった。イエスの母にしては若すぎるマリアであるが、悲しみを湛えて美しく、その衣服の下の身体は「古典的な女性美の頂点」と評される。イエスは左足をやや持ちあげており、死体であることがわかり、解剖学の知見によって生み出された「人間」の姿として横たわっている。<木下長宏『ミケランジェロ』2013 中公新書 p.31-33>
 この「ピエタ」のマリアが肩からさげる帯には全ミケランジェロ作品中唯一となる署名がある。ミラノから来た見物人がミラノの彫刻家の名前を挙げて自慢しているのを耳にしたミケランジェロが、夜こっそり自分の名前を刻み込んだという。<池上英洋『ルネサンス③巨匠の物語』2013 光文社新書 p.201-202>
ミケランジェロ『ダヴィデ像』
ミケランジェロ
『ダヴィデ像』1501-1504頃

ダヴィデ像 若さみなぎる巨人

 フィレンツェではサヴォナローラが異端とされて処刑された後、動揺が続いていた。ようやく1502年、共和政体の維持を掲げたソデリーニが終身執政官に就任して安定を取り戻した。ミケランジェロもその前年にフィレンツェに戻っており、共和国政府から「ダヴィデ像」の政策を委嘱された。ずいぶん前から大聖堂(ドゥオーモ)に放置されていた巨大な大理石を使い、三年がかりで1504年に完成させた。ミケランジェロはまだ29歳であった。4メートルを超える巨像は、伝統にとらわれない姿――ヘブライ王国(イスラエル)を侵略しようとするペリシテ人の巨人ゴリアテを一騎打ちで倒した少年ダヴィデの像であるが、ゴリアテを組み伏せている図ではなく、右手に石を持ち、左手で投石用の革紐を肩に掛け、決然と敵を睨んでいる、戦う前の姿であり、しかも裸で立つという――だった。
(引用)できあがった「ダヴィデ」を見上げて、ソデリーニが「すばらしい、しかしちょっと鼻が大きすぎないか」と言ったところ、梯子を架けて上っていったミケランジェロは、鑿をたたくふりをしてあらかじめ掌に握っていた大理石の粉をパラパラと落とした。降りてきて、「あれでどうたい?」と尋くと、ソデリーニは「すごく良くなった」と満足した。<木下長宏『ミケランジェロ』2013 中公新書 p.51>
設置場所をめぐるダ=ヴィンチとの確執  ミケランジェロのダヴィデ像がほぼ完成した時、フィレンツェ共和国政府は、この事業を直接に担当した毛織物業者組合をしてこの像をどこに置くべきか検討会を開催させた。その委員会にはボッティチェリダ=ヴィンチなどすでに名声を得ていた芸術家が参加した。その委員会でダ=ヴィンチは議会前の広場でなく、その横のロッジア・ランツィの屋根の下に置くべしと主張した。風雪による破損を避ける手目に室内が良いというのがダ=ヴィンチの主張だったが、作者のミケランジェロは強く反発した。当時まだ30歳にもならないミケランジェロが、50歳を超えたダ=ヴィンチを罵ったともいわれる。この二人は1503年にもフィレンツェ政府の発注で政庁(パラッツォ・ヴェッキオ)の大広間に壁画の競作でライバルとして対抗心を燃やしていた(この壁画は二人とも完成できなかった。
 ミケランジェロはあくまで“民衆の広場の光の中に!”置くことを主張したのだった。結局作者の意図が尊重され、この像は、政庁(パラッツォ=ヴェッキオ)前のシニョリーア広場に置かれることになった。そうしてダヴィデ像は、メディチ家を追放し共和政を守ろうとするフィレンツェ民衆のシンボルと見做され、フィレンツェの人びとはその後の年代を「ダヴィデ立てられしより」何年と数えるようになった。<羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』1939 岩波新書 p.158-160>
 ただし、現在シニョリーア広場に置かれているダヴィデ像はレプリカで、本物はアカデミア美術館の室内で展示されている。

教皇ユリウス2世の墓廟

 「ピエタ」と「ダヴィデ像」で若くして名声を得たミケランジェロは、1505年にローマ教皇ユリウス2世に招かれたローマに行き、その墓廟を制作することになった。そのためのさまざまな彫刻をつくっており、『モーセ像』などが残っている。しかし、ユリウス2世は移り気な人で、墓廟用の大理石の代金を支払わず、ブラマンテに委嘱していたサン=ピエトロ大聖堂検知器に回してしまった。嫌気のさしたミケランジェロは、1506年、ローマからフィレンツェに帰ってしまった。

システィナ礼拝堂の天井絵「創世記」

『楽園追放』
ミケランジェロ『システィーナ礼拝堂天井画 楽園追放』
 墓廟に興味をなくしたユリウス2世は今度はヴァチカン宮殿の一部のシスティナ礼拝堂の天井画を描くことを思いつき、ミケランジェロに強要した。フィレンツェ当局から説得されたミケランジェロはローマに戻り、それでも製作意欲に燃えて製作に取りかかった。1508年5月~1512年10月まで4年余の仕事であった。礼拝堂の高さ21メートルの天井に、旧約聖書の創世記から、光と闇の分離、天体と植物の分離、地と水の分離、アダムの創造、イヴの創造、原罪と楽園追放、ノアの燔祭、大洪水、ノアの泥酔(?)とされる天地創造9場面を中心に、周りをさまざまな人物で埋め、フレスコ画の技法で描いている。しかし聖書の物語とは異なったプロットで描かれている場面もあり、そこにミケランジェロのカトリック教会批判を見て取る意見もある。天井画は1512年に完成、公開されたが、翌年には依頼主のユリウス2世が死去した。

Episode ミケランジェロ、手紙を上にかかげて読む

 システィーナ礼拝堂の天井いっぱいに絵を描くことは想像以上に難事業であった。彼は足場台を工夫しなければならず、それには建築家としての技能が役立った。この天井画は天井全体を立体的に構成しており、絵画と建築、彫刻の総合芸術だったと言うことができる。4年もの間、天井を向いていたために、仕事が終わってからも手紙を読む時などは、みな頭の上にかかげて見なければならなかったという。<羽仁五郎『ミケルアンヂェロ』1939 岩波新書 p.166-168>

メディチ家礼拝堂

 1513年、次の教皇となったレオ10世はメディチ家の出身であったので、ミケランジェロにフィレンツェに帰り、メディチ家礼拝堂(サン=ロレンツォ教会)を制作せよと命じた。その制作は延々と続き、1523年に教皇となったクレメンス7世(同じくメディチ家出身)の時にも継承された。

フィレンツェ共和国の危機

 そのころ、1517年に宗教改革が始まり、ヨーロッパは激動の時代を迎えていた。フランスのフランソワ1世と、神聖ローマ帝国のカール5世の対立は、イタリア戦争を再燃させ、1527年にはカール5世はフランス王と手を結んだローマ教皇に対して傭兵部隊をローマに派遣して略奪を行わせた。このローマの劫略は、イタリアルネサンスの終わりを告げる動きとされている。この時、フィレンツェでは共和派が決起して教皇クレメンス7世を後楯として市政を支配していたメディチ家を追放した。そして共和派はフィレンツェを防衛するため、市の城塞化を進め、軍事九人委員会を設けた。
要塞構築総監督ミケランジェロ 1529年1月10日、ミケランジェロはフィレンツェ共和国最高機関シニョリアの書記局「自由及び平和の十人委員会」の中に設けられたフィレンツェ政府軍参謀本部である“軍事九人委員会”の一人に選ばれ、さらに4月6日、1年間の「フィレンツェ防衛築城委員長」に就任した。「ルネサンス芸術の天才ミケランジェロはいまや軍事防衛築城の天才としてその全精力をかたむけて、フィレンツェ自由都市をまもる要塞各地の防衛堡塁の再建又は創建にあたった」<羽仁 p.194>
 フィレンツェは敵に包囲されて食糧難に陥りながら、闘いを続けた。しかし9月に入り内部の親メディチ派が敵と内通したため危機が迫り、ミケランジェロも一旦ベネツィアに亡命した。共和国軍が形成を盛り返したので、間もなくミケランジェロはフィレンツェに戻ったが、そのころからフィレンツェにメディチ家政権を復活させるべく、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の軍事協力が強められ、再びフィレンツェは危機に陥り、ミケランジェロは城塞防衛に奔走しなければならなかった。<羽仁 p.227>
フィレンツェ共和国の敗北 皇帝カール5世の派遣したスペイン兵を主体とする皇帝軍の総攻撃は1529年末に始まり、フィレンツェ市民は果敢に抵抗したが、1530年5月からは完全に包囲され、食料が底をついた。それでも持ちこたえていたが、防衛軍司令官がメディチ家側に寝返ったことから、ついに8月8日、10ヶ月あまりの包囲戦のは終わり3万もの犠牲を出して、フィレンツェは降伏した。フィレンツェはメディチ家支配が復活し、共和派の指導者は次々と捕らえられ殺された。ミケランジェロにも追及の手が伸びたので、彼はメディチ家礼拝堂の地下に隠れて逮捕を免れた。

メディチ家礼拝堂

 教皇クレメンス7世は自分を裏切ったミケランジェロであったが、その才能を高く評価していたからか、赦免し、メディチ家礼拝堂の建設の継続を命じたのだった。このあたりのミケランジェロの行動はわかりづらい。彼は、カトリック教会に対しては、若いころのサヴォナローラの影響もあって批判的であったらしいが、ルターなどの宗教改革に同調したわけではない。また芸術のパトロンとしてのメディチ家とローマ教皇とは、契約上や金銭上のトラブルを抱えながら、やはり依存している意識が強かったようだ。一方でフィレンツェ市民としての共和政への支持は明確であった。しかし、結局ローマ教皇の要請に従ってローマに移住し、フィレンツェには戻らなかったのは、深く負い目を感じていたからに違いない。

「最後の審判」

 1533年、教皇クレメンス7世は、ミケランジェロにシスティナ大聖堂の奥の壁に「最後の審判」を描くことを依頼した。1534年、58歳になっていたミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマに居を移した。この年、ローマ教皇はパウルス3世(トリエント公会議の主催など対抗宗教改革を推進した教皇)のもとで作業が進められることとなり、1541年に完成した。この壁画は、それまでにない巨大さと、ダイナミックな人物表現で人々を驚かせ、現代の見る人々をも驚嘆させている。中央のイエスとマリア以外にそれぞれ十二使徒など聖書の登場人物を描いていると思われるが、説明的ではないので誰が誰であるかは結局はわからない。なお、システィナ大聖堂の天井画と壁画は、1980年~94年に大規模な修復工事が行われ、その際にミケランジェロが制作した時期の色彩が再現されている。
『最後の審判』部分
ミケランジェロ
『最後の審判』部分

Episode 「最後の審判」の一場面

(引用)この「最後の審判」のフレスコ画がほぼ出来上がったとき、それを見に行ったパウルス3世から意見を求められたヴァチカン宮殿の式典長ピァージョ・ダ・チェゼーナは、こんな性器を露出した裸体ばかりの絵は神聖な礼拝所にふさわしくないと非難した。それを聞いたミケランジェロは、地獄の番人ミノスの顔をこの式典長に似せて描いたというのである。異様な耳をしたミノスは全裸であるばかりでなく、大蛇に身体を縛られ、ペニスは蛇に喰いつかれている。ミケランジェロの陰惨なユーモアとしかいいようがない。(右図)<木下長宏『ミケランジェロ』2013 中公新書 p.134>
 「最後の審判」に描かれているのは、従来の教会堂の宗教画からまったくかけ離れた、斬新で特異なものであった。賛否両論が湧き起こる中、圧倒的なスケールと筆力で圧倒し、それは生き続けている。人によってはその絵の中に依頼主である教会への信仰と自己の心情との矛盾という、ミケランジェロの苦悩が色濃く表れている、と観察している。

Episode 名画の修正 「さるまた屋」

 ミケランジェロの「最後の審判」に対し、殉教者や聖なる処女を娼婦のような裸体で描いているという非難はその後も続いた。その非難はミケランジェロがルター派的であるというものだった。しかし、ローマ教皇パオロ4世が、もとのかれの弟子ヴォルテッラに命じてこの壁画の裸体に布を描きそえさせたとき、ミケランジェロは何も言わなかった。民衆は、それからヴォルテッラを“さるまた屋”と呼んだ。後に教皇クレメンテ8世がまたこの壁画を塗りつぶさせようとしたときは、ローマの聖ルカのアカデミアが抗議して、これを行わせなかった。<羽仁 p.227>

サン=ピエトロ大聖堂の修築

 サン=ピエトロ大聖堂は、1506年、ユリウス2世の時にブラマンテの設計によって建設が開始され、レオ10世がその資金を得るために贖宥状の発売を行い、その後も多くの建築家が関わっていたが、完成しないでいた。1514年にはブラマンテが死去してラファエロらがその任に当たっていたが、1520年にはラファエロも死去し、その後は責任者がたびたび交代して工事が進んでいなかった。ミケランジェロは1535年にローマ教皇庁(ヴァチカン宮殿)の主席画家・彫刻家・建築家に任命されていた。1546年、ローマ教皇パウルス3世は、継続中のカンピドーリオ広場とサン=ピエトロ大聖堂の大改修を引き継ぐよう要請した。72歳になっていたミケランジェロはこの仕事を光栄とし、無報酬で大聖堂造営主任の仕事を引き受けた。ミケランジェロは80歳代になっても創作意欲は衰えず、そのほかの建物もふくめて、建築に相当のエネルギーを注いだ。その後、1564年の死去まで大修築に関わったが、結局完成することはなかった。最終的に完成し、献堂式を終えたのは1626年である。現存する大聖堂は、さまざまな建設思想が入りまじり、ミケランジェロの単独の創意ではないが、中央の高いクーポラはミケランジェロの設計によるものである。

最後のピエタ 89歳まで創作を続ける

ロンダニーニのピエタ
ミケランジェロ
『ロンダニーニのピエタ』1559?-1564頃
 ミケランジェロは生涯に4つのピエタ――十字架から降ろされたイエスを、母マリアが抱きかかえる図柄――を制作している。その最初が24歳の時のデビュー作であった、現在ヴァティカンにあるピエタである。そして最後に取り組み、未完のまま終わったのが「ロンダニーニのピエタ」であり、その作風はデビュー作とまったく異なり、研ぎ澄まされた精神性が表れている。ミケランジェロは89歳の生涯を終えるまで、鑿を振るい続けた。
(引用)「ロンダニーニのピエタ」像は、「ピエタ」だと教えられているから、聖母マリアと十字架から降ろされたイエス・キリストの彫像だと思って観ようとするが、そういう知識を前もって与えられていなかったら、どんなふうに観えるか。一人の倒れかかっている裸の男を後から抱き上げ引き揚げようとしている頭衣を着けた女の人の像、ということになるだろう。この彫像には、女の人に、マリアであるトリビュートは一切ない。裾裳から剥き出した左脛は、むしろマリアであってはならない様相を呈している。イエスは素裸で聖痕もない。・・・もう息を引き取っているのに、死んじゃだめ、と抱きしめながら心の奥で叫んでいる。「ロンダニーニのピエタ」は、鎮魂と蘇生への必死の願いを籠めた像である。
 ミラノのスフォルツァ城美術館の奥のほうに展示してある「ロンダニーニのピエタ」の周りを巡って、いろいろな角度から眺めていると、はっとする姿にであう。まるで二人が一つの大きな羽根のようになって飛翔しようとしている。・・・これこそ、「昇天」の類い希な形象化ではないだろうか。<木下長宏『ミケランジェロ』2013 中公新書 p.218~221>

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8章2節 イ.文芸と美術
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羽仁五郎
『ミケルアンヂェロ』
1939 岩波文庫

木下長宏
『ミケランジェロ』
2013 中公新書

池上英洋
『ルネサンス三巨匠の物語』
2013 光文社新書