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レオナルド=ダ=ヴィンチ

ダ=ヴィンチ自画像
ダ=ヴィンチ『自画像』

15~16世紀、イタリアの代表的なルネサンス人。美術以外にもさまざまな分野で活躍した。

 レオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452~1519)は15世紀末から16世紀にかけて、ミラノやローマを拠点に美術以外にも技術者としても活躍し、ルネサンスの最盛期をもたらした。

万能人としての活躍

 絵画としては有名な『モナ=リザ』がある。油絵技法によって描かれ、神秘的な微笑で知られる。現在はルーブル美術館蔵。『最後の晩餐』も従来のフレスコ画ではなく油絵技法によって描かれた壁画で、ミラノの聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂にある。十字架にかかる前夜のキリストと12人の使徒を描いており、遠近法に構図と緊張感ある使徒の表情が注目される。現在、剥落がすすんでおり、心配されている。彫刻ではミラノ公のための『騎馬像』などがある。彼は科学者、あるいは土木建築家としての一面もあり、潜水艦や飛行機、ヘリコプター、戦車などを構想し、人体の解剖も行った。また「リラ」という楽器の演奏にすぐれた音楽家でもあったとされており、ルネサンスの典型的な「万能人」であった。晩年はフランスのフランソワ1世に招かれて、アンボワーズに住み、国王の寵愛を受けながらフランスにルネサンスの風を吹き込み、1519年にそこで死去する。

Episode レオナルド=ダ=ヴィンチの謎

 レオナルドについては、その名声にもかかわらず、昔からさまざまな謎がつきまとっていた。その出生に関しては、私生児であることがわかっているが生涯独身を等したことも謎とされている。また左利きであったため、文字は裏返しに書く「鏡像文字」で書いていた。なお、フロイトは彼の手記を分析して同性愛者であったと推測している。<斎藤泰弘『レオナルド=ダ=ヴィンチの謎』-天才の素顔 1987 岩波書店>

ダヴィンチの生涯

不遇な少年時代 トスカナ地方の小さな村、ヴィンチ村で生まれた。その生家と言われる家が今でも残っている。“ダ=ヴィンチ”とは、「ヴィンチ村の」の意味で、父親は公証人のピエロといい、レオナルドはその私生児であった。そのため満足な初等教育を受けられなかったらしく、左利きも矯正されず続き、彼自身も生涯ラテン語の理解には苦しんだという。
フィレンツェでの修業 そのような境遇であったからか、彼は1469年ごろにフィレンツェに出てヴェロッキョの工房の徒弟として絵画、彫刻の修行をはじめた。そのころフィレンツェ共和国では、ロレンツォ=ディ=メディチの統治が始まっており、ルネサンスは後期の爛熟期となっていた。徒弟時代には、ブルネレスキが建設したフィレンツェのサンタ=マリア=フィオーレ大聖堂で未完のままであった約100mの高さの頭頂部に約2トンの青銅球を設置する仕事に成功し、工学的な経験を積んだ。また絵画でも師の作品を手伝い、技術を磨いた。そのころボッティチェリが『春』を発表して、一躍人気作家となっていたが、ダヴィンチは寡作であったためか評価は低かった。
ミラノ公国での活躍 ダ=ヴィンチは30歳ごろ(1482年ごろ)、失意のうちにフィレンツェを去り、ミラノに赴いた。ミラノは当時、ヴェネツィアと並ぶ強国で、ロドヴィコ=スフォルツァ(あだ名はイル=モーロ)が政権を握っており、多くの学者や芸術家、技術家をその宮廷に抱えていた。ダ=ヴィンチは軍事技術者として自薦状を提出してミラノ公に仕えることとなり、あるときは音楽家(リラ演奏家)や余興係、あるときは都市計画者あるいは軍事技術者か水利工事監督者として活躍した。それらの仕事を完璧にするための思索ノートは後に『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』として出版されている。
『最後の晩餐』 芸術家としては、ミラノ公の先祖の騎馬像と聖フランチェスコ教会の「岩窟の聖母」の製作にあたったが、最も重要な作品、聖マリア=デッレ=グラツィエ聖堂の食堂壁画に『最後の晩餐』が描かれたのがミラノにおいてであった。
ダ=ヴィンチ『最後の晩餐』
ダ=ヴィンチ『最後の晩餐』 1495-1497
イタリア戦争 1499年、イタリア戦争のさなか、フランス王シャルル8世がミラノに侵攻、そのときダ=ヴィンチが製造中の大騎馬像のための青銅は急遽大砲用に転用され、出来上がっていた原寸大模型はフランス兵の試し撃ちの標的にされ破壊されてしまった。ミラノはフランス軍の手に落ちロドヴィコ=イル=モーロは逃亡、途中捕らえられて哀れな死を遂げた。
ミケランジェロとの対決 ミラノを離れたダ=ヴィンチは、ヴェネツィアなどを経てフィレンツェに戻り、メディチ家を追放して共和政を復活させたフィレンツェ共和国政府から、1503年に政庁(パラッツォ・ヴェッキオ)の大広間に壁画「アンギアーリの勝利」の製作を依頼された。その時、同じ建物反対側の壁画は後輩のミケランジェロが「カッシーナの戦い」を制作することになり、二人の巨匠の対決となった。ミケランジェロは大作『ダヴィデ像』に取り組んでおり、若くして大家の仲間入りしていた。この二人の競作は、ダ=ヴィンチが画法で悩んで進まないうちに、ミケランジェロもローマに招かれたためにいずれも中断し、決着がつかずに終わった。
ダ=ヴィンチ『モナリザ』
ダ=ヴィンチ
『モナリザ』1503-1505頃
『モナ=リザ』 一方同じ1503年にはダ=ヴィンチは『モナ=リザ』の製作を開始した。この作品は、そのモデルが誰か、何のために描いたのかなど、多くの疑問が残されている。また、4年ほどで完成したとされているが、ダ=ヴィンチはこの絵を生涯放さず手もとに置き、いつも筆を加えていたという。フランソワ1世に招かれてフランスに行ったときにもダ=ヴィンチは『モナ=リザ』を携えている。現在のところ、モデルはリザ=デル=ジョコンダという商人の妻であったという説が有力である。
イタリアからフランスへ   1507年、フランス王ルイ12世はミラノに入城し、ダ=ヴィンチは王室附画家に任命されて再びミラノに行った。この時期は平穏で、もっぱら科学研究と『聖ヨハネ』、『聖アンナ』などの作品に専心した。1512年にフランス軍がミラノから敗退、翌年ダ=ヴィンチはローマ教皇レオ10世の弟ジュリアーノ=デ=メディチに仕えるためローマに赴いた。1516年、ジュリアーノが亡くなったので、ダ=ヴィンチはアルプスを越えてフランスに向かい、フランソワ1世の宮廷に仕えることとなり、アンボアーズ郊外のクルー城に住んで、フランス王の祝典の余興を考えたり、運河工事にあたったりした。1519年5月2日、アンボアーズで客死し、同地のサン=フロランタン教会に葬られた。<杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上 1954 岩波文庫 p.3-6 ダ=ヴィンチの生涯などによる>
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ノートの参照
8章2節 イ.文芸と美術
書籍案内

杉浦明平訳
『レオナルド=ダ=ヴィンチの手記』
1954 岩波文庫

斎藤泰弘
『レオナルド=ダ=ヴィンチの謎-天才の素顔』
1987 岩波書店

池上英洋
『ルネサンス三巨匠の物語』
2013 光文社新書