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メディチ家

イタリアのフィレンツェの大富豪。共和政で強い発言力を持ち、15世紀にはルネサンスの芸術・学問の保護者となった。共和政が衰えた後はトスカナ大公としてヨーロッパの貴族の一員となる。

 イタリア北部の内陸最大の商業都市、フィレンツェの大富豪でルネサンスの保護者として知られた一族。13世紀ごろからフィレンツェで薬屋を営み(その紋章の赤い6つの玉は、丸薬を示す看板だったという)、財をなしたらしい。14世紀末には銀行業を営み、全ヨーロッパにも知られ、主要な町に支店を置くようになっていた。特にローマ教皇の管財人となりその財産の管理にあたり名声を高め、またフランス王やドイツの諸侯などにも融資している。後にその紋章の6つの赤い玉の上に、フランス王家の紋章である百合の花をつけることを許されている。

メディチ銀行

 ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。当時は他にペルッツィ商会とバルディ商会の方がイタリア外にも支店を持って大きかったが、メディチ銀行は独自の経営形態を組織して、次第に大銀行に成長していった。
独自の銀行組織 独自の経営形態とは、単一の会社組織ではなく各支店は独自の資本と帳簿を持つ法的に分離した会社の形をとり、それらをフィレンツェの本部(メディチ邸)にいる総支配人が強力に統括する本社と支社の二重構造であった。それによって一支店の失敗による商社全体の倒産の危険性を回避するとともに分散経営の非効率性の欠点も埋めることができた。銀行幹部にはメディチ家だけでなくフィレンツェの商人も採用された。
最大の顧客は教皇庁 メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。教皇庁からの収益は、1435年までの銀行の年収益の50%をつねに超え、1397~1420年までの純利益は7万9千フィオリーノにのぼっている。当時のローマ教皇庁は大シスマの渦中にあり、メディチ銀行は対立教皇の政治資金に融資し、双方から利益を得た。メディチ銀行は教皇庁の徴税事務や資金輸送を請け負い、ローマ支店長は教皇庁財務管理者に任命されてその財政に深く関わるようになった。<森田義之『メディチ家』1999 講談社現代新書 p.64-79>

パトロンとしてのメディチ家

 ジョバンニは銀行業の利益を毛織物業に投資し、またその名声からフィレンツェ市政にも関与し、芸術を保護するパトロンとしても活躍し、ブルネレスキなどが、その委嘱を受けて作品を製作した。ジョバンニはこのようにルネサンスの保護者としてのメディチ家の基礎を築いた人物であり、その仕事は子のコシモと孫のロレンツォに継承される。

メディチ家の全盛期

 メディチ家はフィレンツェの共和政の中で大きな発言力を揮うようになり、15世紀のコシモ(”イル=ヴェッキオ”、古老の意味)とその孫のロレンツォ(“イル=マニフィコ”、偉大な、という意味)の二人の時が最も有力であり、まさにフィレンツェがルネサンスの中心地として栄えた時代であった。
コシモ=イル=ヴェッキオ  1429年にジョバンニが死去すると、新興勢力であるメディチ家に反発したフィレンツェの大商人たちが全市民大会を開いてその子コシモを政府転覆の陰謀ありという口実で追放してしまった。しかしわずか1年で市民大会はコシモの召喚を決議、1434年にコシモはフィレンツェに復帰し、かえってメディチ家の支配権力が確立した。権力を握ったコシモは、メディチ銀行の支店をジュネーヴ、ブリュージュ、ロンドン、アビニヨンに置き、毛織物・絹織物の事業を拡大、さらにヨーロッパ各地の商品を扱う総合商社としてその全盛期を迎えた。コシモは揺るぎない財力を背景に、彫刻家のドナテルロ、画家のボッティチェリなどの芸術家を保護し、また古典文芸の保護につとめてプラトン=アカデミーを創設した。
ロレンツォ=イル=マニフィコ フィレンツェは共和政を原則としていたので、政権は世襲されなかったが、メディチ家と数家による寡頭支配が現実のものとなっていた。コシモの孫のロレンツォも1469年に「国家の長」の地位についたが、一時反メディチ勢力による襲撃事件などもあって動揺した。しかし祖父の財力と名声でフィレンツェの実権を握り、またギリシア・ローマの文芸や芸術作品を収集するなど、ルネサンスのパトロンとして重要な働きをした。

メディチ家の没落と再興

 1492年にロレンツォが死ぬと、フィレンツェでは反メディチ家を掲げる共和派が発言権を増し、しかもルネサンス的な華美な風潮を非難するサヴォナローラが登場して不安を煽るようになった。おりから、1494年にイタリア戦争が勃発、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃したため、メディチ家はフィレンツェから追放され、サヴォナローラの神権政治が行われる。しかし、サヴォナローラはローマ教皇から異端と断定されて急速に民衆の支持を失って処刑され、メディチ家は復活を遂げた。
メディチ銀行の経営不振   コシモの子のピエロ(ロレンツォの父。“通風やみ”)のころから、メディチ銀行は次第にその経営が困難になっていた。その理由は、ローマ教皇や各国王に貸し付けた資金が不良債権化したためであった。特にイタリア戦争が長期化すると、各国王への貸付金は焦げ付き、回収できなくなり、メディチ銀行はいくつかの支店を閉鎖しなければならなくなった。

メディチ家出身のローマ教皇

 その後、メディチ家からはレオ10世とクレメンス7世という二人のローマ教皇を出している。特にレオ10世の時、1517年、サン=ピエトロ大聖堂の修築のためにドイツで贖宥状を発売し、それを批判したルターによる宗教改革が始まることとなる。また、そのころフランス王と神聖ローマ教皇の対立が激化してイタリア戦争が再燃、ローマ教皇クレメンス7世がフランス王と結んだことから、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世によるローマの劫略が行われると、フィレンツェでも共和派が決起し、再びメディチ家が追放された。

メディチ家支配の復活

 フィレンツェ共和国はメディチ家の復権を阻止すべく防衛体制を強化したが、宗教改革を始めたルターという共通の敵を持つこととなった神聖ローマ皇帝とローマ教皇の提携が成立すると、フィレンツェでも旧体制であるメディチ家を復活させるため、1530年に皇帝軍が総攻撃を加え、激戦の結果フィレンツェ共和国は敗北し、またまたメディチ家が復活、今度は共和制の形態をとらず、神聖ローマ帝国皇帝からフィレンツェ公の地位を与えられると言う形で、フィレンツェを統治することとなった。

トスカナ大公としてのメディチ家

 メディチ家はその後、その周辺の土地も合わせてトスカーナ公となり、1569年以降はトスカーナ大公といわれるようになる。その後は、メディチ家はトスカーナ大公の地位を世襲し、ヨーロッパ列国の王家と同列の国際的地位を保っており、フランスのユグノー戦争の時の王妃カトリーヌ=ド=メディシスもメディチ家の出身である。トスカーナ大公位は18世紀まで継続したが、結局は断絶する。<中田耕治『メディチ家の人々』初版1979年集英社 2002年講談社学術文庫版 などを参照>
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ノートの参照
8章2節 ア.ルネサンス
書籍案内

森田義之
『メディチ家』
1999 講談社現代新書

中田耕治
『メディチ家の人々』
2002 講談社学術文庫版