印刷 | 通常画面に戻る |

アムステルダム

ネーデルラントの独立によって首都となり、アントウェルペンに代わって国際商業で栄える。

ネーデルラントのホラント州の一都市であったが、オランダ独立戦争の過程で、1585年に、それまで繁栄していた南部ネーデルラントのアントウェルペン(アントワープ)が、スペイン軍によって破壊されて、多くの新教徒の商工業者がアムステルダムに移住した。それより前の1581年に独立を宣言したネーデルラント連邦共和国の都となっていたアムステルダムは、独自の経済活動を展開し始めると急速に発展していった。商業都市これによってアムステルダムが世界経済の中心地となった。また、1580年にはスペインがポルトガルを併合し、リスボンへのオランダ船の入港を禁止したため、アムステルダムの商人は直接海外貿易に進出しなければならなくなるという事情もあった。現在でも世界有数の商業都市である。現在は法律上はオランダ王国の首都だが、実際の首都機能は王宮のあるハーグである。

アムステルダム繁栄の裏事情

 なお、ポルトガルがスペインに併合されたとき、多数のユダヤ人が追放され、彼らがアムステルダムに移住してダイヤモンド加工業が始まった。その他、フランスからはカトリック側の迫害やユグノー戦争の難を避けた多くの新教徒が移住してきたことや、国教会による抑圧から逃れてイギリスからピューリタンが移住してきたことなどがアムステルダムの商工業の発展に大きな寄与をすることとなった。

Episode チューリップ・バブルはじける

 オランダと言えばチューリップが有名である。17世紀のアムステルダムでは、チューリップの球根が投資の対象となり、高額な取引が行われてチューリップ・バブルと言われる投機熱が人びとを狂わせ、そのバブルがはじけて財産を失ったものも多かったという。国際金融都市として繁栄したアムステルダムでのエピソードと言うにはいささか深刻な一こまである。
 チューリップは中央アジアの原産で、アフガニスタンやイランを通じてオスマン帝国の宮廷でで大いにもてはやされた。15,6世紀にオスマン帝国にやってきた商人や外交官がヨーロッパにチューリップをもたらしたらしい。特にオランダではその美しさが受け容れられた。
(引用)チューリップはもともとトルコの宮廷の庭園で大事に育てられていた花で、これをあるオランダ人の商人がその美しさに感嘆してスルタンから下賜され本国へ持ち帰ったのが最初であり、その花がトルコのターバンに似ているところから「チュルクリップ(トルコの帽子)」と呼ばれるようになったことに由来しているという。<大島直政『遠くて近い国トルコ』 1968 中公新書 p.120>
 オランダ独立戦争が始まり、南ネーデルラントがスペイン軍に抑えられたため、多くの新教徒商工業者が北部に移住してきた。彼らはアムステルダムやライデンなどの商工業の発展をもたらし、独立に伴って多く富と高い文化を有するようになった。そのころ、ライデン大学の植物学者クルシウスがチューリップの栽培法を研究し、野生種から園芸種に品種改良を行って多彩な品種を生みだすと、その美しさは都市貴族や富裕な商人の心を捉えた。17世紀にはいるとその栽培が大流行し、特に美しい品種の球根が値段で取引されるようになった。貿易商たちが海外貿易で得た黒字を、チューリップに投資したのである。
 その結果、1633年から高騰し始め、その頂点である1637年には、たった12個の球根に6650ギルダーの値が付いた。一家を養うのに1年に300ギルダーですむ時代に、である。ところが、次の週になっていきなり値段が十分の一に急落、さらに下落は止まらずチューリップ投機に熱を上げた人びとが次々と破産した。チューリップ・バブルがはじけたのだ。これは資本主義社会でその後何度も繰り返され、日本の土地バブル、そしてサブプライムローンの破綻から始まったリーマンショックなどの現在も起きてい投機の過熱がもたらす悪しき経済現象の始まりだった。オランダではチューリップ=バブルははじけたが、その美しさに罪はなかったので、チューリップ栽培は現在でも盛んに行われていることは皆さんもよくご存じのことである。<M.ダッシュ/明石三世訳『チューリップ・バブル』2000 文春文庫>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
8章4節 エ.オランダの独立とイギリスの海外進出
書籍案内

M.ダッシュ/明石三世訳
『チューリップ・バブル』
2000 文春文庫