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西インド会社

オランダ、フランスが設けたアメリカ新大陸との貿易を行う特権的な株式会社。

 インド・東南アジアとの貿易を扱う東インド会社に対して、アメリカ大陸・アフリカとの交易を行う特権会社。「西インド」とは西インド諸島だけではなく、それを含む南北アメリカ大陸をカバーする地域名であった。
 オランダネーデルラント連邦共和国)は1621年には「西インド会社」を設立、アメリカ大陸に進出し、スペインからの独立戦争の一環として北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を建設し、1625年にはその中心にニューアムステルダムを設けた。またフランスは1664年、コルベール財務長官のもとで西インド会社を設立、カナダ方面やルイジアナへの進出をはかった。しかし、フランス西インド会社は東インド会社にくらべて経営は奮わず、北米大陸ではイギリスの支配権が強まっていく。オランダの拠点であったニューアムステルダムも英蘭戦争の結果、1664年にイギリスに奪取され、ニューヨークと改称される。

オランダ西インド会社

 オランダが東インド会社、次いで西インド会社を設立した時期はオランダ独立戦争の最中であった。オランダの海外進出はこの独立戦争と、英蘭戦争、ポルトガルの衰退などとの関係が深いことに注意しよう。
(引用)1580年、スペインの王位とポルトガルの王位が統合されたとき、西アフリカから東インド諸島にかけてのポルトガル帝国全体が、また、格好の目標となったのである。まず最初に、それはオランダ人にとって格好の目標となった。独立を求めてスペイン軍に対してますます絶望的な戦闘を強いられていたユトレヒト同盟諸州にとって、拡大しすぎてろくに防備されていなかったポルトガルの領地は、文字通り黄金の機会を与えた。ポルトガルの交易を略奪することは、スペイン王室からは極めて必要なその富の源を奪ったばかりでなく、オランダ人に対しては戦争遂行の資金をもたらした。・・・1602年に彼らは東インド会社を設立したが、それは、インド洋と東インド諸島にある一握りの交易点以外のすべての場所から、次第にポルトガル人を追い出していった。オランダの冒険商人たちにとっては、1609年から1621年までの12年間のスペインとの休戦は、確かに、間違いなく成功する一連の略奪の、ありがたくない中断であったわけである。休戦が終わったとき西インド会社が設立されたが、それはポルトガル人が16世紀中に南大西洋に作りあげた、閉鎖的交易体制を奪取するためであった。この会社は、西アフリカから黄金と象牙を買い、恐ろしい条件下で奴隷をアフリカからブラジルに運び、そこの砂糖プランテーションで働かせ、こうしてできた砂糖をヨーロッパへ輸出した。このことからオランダ人は、彼らの利益の多くを呑み込むことになる、ブラジルでのポルトガル人との長期にわたる無分別な領土戦争に巻き込まれた。しかし、それにもかかわらず、1640年に再びポルトガルがスペイン王室から分かれて講和を求めてきたとき、東西の両インド会社は、それへの反対を請願した。・・・<マイケル・ハワード/奥村房夫・大作訳『ヨーロッパ史における戦争』第3章商人の戦争 中公文庫 p.80-81>