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ベニン王国

アフリカ西岸、ギニア湾に面した黒人王国。黒人奴隷の供給地となった。イギリスに植民地化され、1960年に独立したナイジェリアの一部となる。

 アフリカ大陸の西岸、ギニア地方にあった王国。現在のナイジェリアの海岸地方にあたる。その起源は明らかではないが、ポルトガルとの接触が始まった15世紀末には、アフリカで最も強大な国家であり、青銅器などの高い製造技術とアフリカ美術として評価が高い彫刻でも知られる王国であった。ベニン王国の王はオバと言われ、祖先祭祀の最高首長として宮廷を持ち、多くの臣下と富にかこまれていた。
ベニン王国の都エド
(引用)ベニン王国の首都エドは、おそらく11世紀ごろに大交易都市として興隆し、1450年ごろ、そのピークに達したものと思われる。1600年より少し前にベニンを訪れたオランダ商人は、その規模に大きな感銘を受け、彼はアムステルダムよりも大規模だと思った。もうひとりのオランダ人観察者はその「すぐれた法制度」と「見事に組織された警察機構」を賞賛している。<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.115>

ポルトガルとの奴隷貿易

 ポルトガルのジョアン2世はベニン王のもとにカトリック宣教師団を派遣して交易を働きかけ、ベニン王もポルトガルに使節を派遣した。ポルトガルは1482年に現在のガーナ(旧ゴールドゴースト)に築いたエルミナ要塞に次いで、1486年にベニンに商館を設け香辛料、象牙、金などをヨーロッパにもたらした。16世紀からは、ベニン王が内陸から奴隷狩りで集めてきた黒人奴隷が新たな交易に加えられた。

イギリスの奴隷貿易

 ポルトガルに代わってオランダが進出、次いで17世紀からはイギリスがベニン王国との貿易を独占した。イギリス商人はベニン王に鉄砲を大量に売りつけ、ベニン王はその鉄砲で奴隷狩りをさらに大々的に行った。このベニン王国が集めた黒人奴隷が、新大陸に送られた黒人奴隷の中で最も多かったと言われている。その結果、この地の海岸はイギリス人から奴隷海岸(Slave Coast)と言われるようになった。

奴隷貿易から植民地支配への転換

 18世紀末のイギリス産業革命は、黒人奴隷貿易よりは、原料の供給地であり製品の市場である植民地としてアフリカを支配しようとする政策の転換をもたらした。併行して人道主義的な奴隷貿易反対運動も強まり、イギリスでは1807年奴隷貿易禁止した。
 しかし、19世紀後半になると、ヨーロッパ列強は、アフリカを資源の供給地であるとともに工業製品の市場とも捕らえて、植民地支配を目指すようになる。いわゆるヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進む中、利害の調節の必要から、1884年~85年にドイツのビスマルクの主催でベルリン会議が開かれ、アフリカ植民地化の列強間のルールが設定された。しかし、列強のアフリカ分割はさらに熾烈さを増し、それぞれが軍事行動を起こすようになっていった。

イギリスの軍事征服と戦後の独立

 イギリスは1892年にベニン王国を保護領とする条約を結んだが、1897年には使節が殺害されたことに対する報復として一挙に軍事征服し、王宮を破壊、財宝を略奪し植民地化を強行した。ベニン王は捕らえられて流刑とされたが、1914年イギリスはその長男をベニン王として即位させ国王としての儀式を復活させた。これはイギリス植民地政策での現地懐柔策の一つであったが、この地が1960年にナイジェリア共和国として独立してからも、ベニン王(オバ)は遺制の王として存続が認められ、祖先祭祀の儀礼を続けている。<川田順造編『アフリカ史』2009 新版世界各国史10 p.220-221>
注意 現在のナイジェリア共和国の西側にベナン共和国があるが、これはベニン王国の後継国家ではないので注意。ベナンはダホメ王国があったところで、1960年にダホメ共和国としてフランスから独立したが、1972年にクーデタが起こり、その際に国号を隣にあって高い文化を誇っていたベニン王国の名を借用し、ベニンのフランス語読みであるベナンとした。
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