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ギニア地方

アフリカの西部海岸、ギニア湾沿岸。15~19世紀、この地方から多数のアフリカ人が奴隷として新大陸などに移送された。

 ここでギニア地方というのは、リベリアから西のアフリカ西岸で大きく湾曲しているギニア湾沿岸地方、その南端はほぼ赤道付近までをいう。現在の西アフリカのギニアギニアビサウではないので注意すること。15世紀のポルトガルエンリケ航海王子の時代に、さかんにアフリカ西海岸沿いに南下し、香辛料・象牙・金、そして黒人奴隷を手に入れるために、この地方を独占的に支配した。このあたりの古い地図を見ると、穀物海岸・象牙海岸・黄金海岸・奴隷海岸という地名が見られるが、これらはヨーロッパ人が付けた地名であり、彼等の欲望が生々しくあらわれている。この地域の諸国が独立してからは、このような過去の悲惨な状況を思わせる地名は使われなくなり、現在の地図からは消えている。
穀物海岸(グレインコースト)=現在のシエラレオネ・リベリア(穀物というのは誤訳で、胡椒のこと。胡椒海岸が正しい。)
象牙海岸(アイボリーコースト)=現在のコートジボワール(コートジボワールはフランス語で象牙海岸のこと)
黄金海岸(ゴールドコースト)=現在のガーナ(ポルトガルはこの地の拠点としてエルミナに最初の城塞を築いた)
奴隷海岸(スレイブコースト)=現在のベナン(ダホメ)・ナイジェリア(ベニンを含む)

ギニア海岸の奴隷貿易

 アフリカの現地人を黒人奴隷としてヨーロッパに連行する奴隷貿易が盛んに行われたのが、奴隷海岸であり、かつてはこの地のベニン王国ダホメ王国で奴隷狩りが行われ、最大の奴隷供給地域となっていた。またギニア湾に浮かぶサン=トメ島もポルトガル領となり、黒人奴隷貿易の中継地として繁栄した。

ポルトガルの独占とその破綻

 1492年にスペインの派遣したコロンブス艦隊が西回りで新世界を発見した(コロンブスはインディアスと考えた)ため、スペインとポルトガルは勢力圏を分割することになり、1493年の教皇分界線が定めれ、さらに1494年にポルトガルの主張によってその線が西に移動され、トルデシリャス条約が締結された。その結果、西経46度30分の子午線より東はポルトガル分とされたので、アフリカ大陸はすっぽりポルトガル勢力圏となった。ポルトガルはエルミナ要塞・サン=トメ島の他に、コンゴ王国にも進出して奴隷積出港としてルアンダ港(現在のアンゴラの首都)を建設した。しかし、早くも16世紀後半になると、フランスとイギリスが盛んにギニア湾岸とその付近のアフリカ西岸に進出し、ポルトガルの独占は破綻していくこととなる。 → ポルトガルのアフリカ植民地支配  アフリカ分割
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ノートの参照
9章2節 ウ.奴隷貿易と近代分業システムの形成