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マラー

フランス革命のジャコバン派(山岳派)の指導者。ジロンド派支持の女性によって暗殺された。

マラーはスイス生まれで、ボルドーで家庭教師のかたわら医学を学び、イギリスで医者として生活していた。イギリス滞在中の1774年に『奴隷の鎖』を書いて専制政治を批判し、人民の専制政治に対する蜂起は義務であると主張した。後に彼は「蜂起についての最初の理論家」と言われる。1776年フランスに戻り、1789年、革命勃発時には46歳になっていたが、バスティーユ牢獄襲撃に参加したり、独自に人権宣言草案をつくったりしていた。

『人民の友』を刊行

 彼を有名にしたのは、1789年9月12日に発刊した新聞『人民の友』であり、革命派のジャーナリストとして活躍し、サンキュロットの立場から、立憲王政派の憲法草案や制限選挙制をきびしく批判した。パリのコルドリエ地区に拠点を移して、ダントンらのコルドリエ=クラブに属して政府の右傾化を追及し、シャン=ド=マルスの虐殺事件でラファイエットと議会を激しく論難するなど、その過激な論調のため、たびたび新聞は発刊停止処分を受けている。立法議会の選挙に立候補したが惨敗、『人民の友』の刊行資金も不足したが、印刷工のシモーヌ=エヴラール―後のマラー夫人―の助けで刊行を続けた。

革命と反革命の嵐の中で

 立法議会のもとでのジロンド派政府による対オーストリア開戦には強く反対し、パリに集まった連盟兵に対して蜂起を呼びかけ、1792年8月10日事件が起きた。マラーはこの時は直接行動には加わらなかったが、続いて起こった9月虐殺事件ではその首謀者であるという嫌疑がかけられた。9月虐殺事件とは、プロイセン軍のパリ進撃の知らせに危機感を強めた革命派(コミューン市民)が、パリの監獄に反革命の容疑で収容されていた僧侶を含む千数百人以上の人びとを殺害した事件である。

ジロンド派を激しく非難

 1792年9月、国民公会の議員に当選すると、その最左翼の山岳派(モンターニュ派)に属し、ダントン、ロベスピエールと並んで三巨頭と言われた。マラーはジロンド派に対し、国王を延命させ、富裕層と結託し、外国勢力と結託していると激しい非難をあびせ、ジロンド派はマラーの9月虐殺事件の責任を追求した。ジロンド派のデュムーリェ将軍がオーストリア軍と通じ、パリを制圧して独裁政権を立てようという陰謀が暴露されたことから、両派の対立は最高潮に達し、ジロンド派はマラーを革命裁判所に起訴した。1793年4月、革命裁判所はマラーを支持するサンキュロットによって包囲され、陪審員は無罪を決定た。マラーの人気は最高潮に達し、国民議会もジャコバン派(モンターニュ派)が優勢となって、6月2日にジロンド派は国民公会を追放され、ジャコバン派独裁政権が成立した。しかし、1793年7月13日、マラーはシャルロット=コルデというジロンド派支持の若い女性によって入浴中に刺殺されてしまった。すでにダントンは信用をなくしていたので、政権はロベスピエール一人に集中することとなった。

ダヴィドの描いた「マラーの死」

Episode マラーの暗殺

 犯人のシャルロット=コルデは、ノルマンディーの小さな町カーンの小貴族の家に生まれた25歳の女性であった。彼女は故郷のカーンで、国民公会を追放されたジロンド派のマラー糾弾演説を聞いて、マラーが死ねば革命の行き過ぎを止めることができると考えた。パリに現れたコルデは、7月13日、マラーに面会を申し込んだ。マラーは痒疹の治療と暑気をさけるため入浴中だったので、面会を断った。午後5時頃、三度目に訪問したコルデは「私は自由のためにつくして迫害されています。あなたの保護が必要なのです」と訴え、部屋にはいることができた。マラーはカーンでの出来事について質問し、コルデはそれに答えていたが、約10分後、彼女は突然立ち上がってマラーの胸にナイフを突き刺した。叫び声を聞いてマラーの妻がかけつけ、医者も呼ばれたが、マラーはその場で50歳の生涯を閉じた。<桑原武夫編『フランス革命の指導者』人民の友・マラー 1978年 朝日選書 p.233>
 右図は、ダヴィドの描いた「マラーの死」。ダヴィドはロベスピエールなどジャコバン派に心酔しており、国民公会の議員にも選出されていた。マラーが暗殺されるとその葬儀の責任者となり、また自らこの絵を描いた。