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ダントン

ロベスピエール
George Jacques Danton
(1759-94)

フランス革命のジャコバン派指導者。ロベスピエールと対立し、ジロンド派と宥和しているとして処刑された。

 フランス革命でジャコバン派の一人として活躍し、自身がギロチンに架けられた典型的な革命期の人物である。ダントンは祖父は農民、父は裁判所の書記という平民出身、2歳で父を失い、11歳で母は再婚するという中で育ち、学校では規則正しい生活を嫌う腕白だったという。21歳でパリに出て弁護士をめざしながら百科全書派の影響を受けて革命運動に投じるようになった。容貌魁偉で行動力にあふれ、たちまち頭角を現し、1790年に自分の住む街区を拠点にコルドリエ=クラブを創設し、ラ=ファイエットやバイイなどの立憲君主派を攻撃した。シャン=ド=マルスの虐殺の時にブリソーと知り合い、ルイ16世の退位を要求する請願文を作成した責任を問われそうになったためにイギリスに渡り、トマス=ペインとも接触した。帰国後はジロンド派に近づいたが、ロランなどがダントンを嫌ったため、次第にロベスピエールに近づき、山岳派(モンターニュ派)として活動するようになった。

「8月10日の男」から反革命へ

 彼の名を一躍有名にしたのは8月10日事件で、サンキュロットの蜂起を扇動したのがダントンだった。蜂起の成功はダントンの名声を高め、「8月10日の男」と言われるようになり、議会から異例の抜擢で司法大臣に任命された。9月には外敵が迫るなか、断乎戦へと熱弁を振るった。国民公会議員に当選すると、ダントンは一転してジロンド派との妥協を策し、暗躍した。1793年4月、発足した公安委員会のメンバーとなり、革命裁判所の設立にあたった。公安委員会が実質的な政府となり、ダントンもジャコバン派独裁政権の一翼となったが、そのころから革命の収束をはかってジロンド派の残存勢力と接触するようになった。ロベスピエールらは、そのようなダントンの動きを危険な宥和主義と批判するようになり、94年3月30日に捕らえられ、3日間の裁判の結果、4月6日にギロチンにかけられた。34歳。

Episode ダントンの疑惑

 人々はダントンこそ、8月10日の蜂起の成功の殊勲者であるとして、「8月10日の男」と名付けた。ジロンド派は民衆の人気があるダントンを利用して、過激分子を抑えさせるようとして、彼の入閣を支持した。一方では、マリー=アントワネットは「ダントンが蜂起に加わっているかぎり大丈夫です。」と言っており、ダントンが仲間のデグランチーヌを通じて宮廷に300リーブルの金を要求したと言う証拠が残されている。<桑原武夫編『フランス革命の指導者』P.190>