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8月10日事件

1792年8月10日、パリ市民、義勇兵が国王を捕らえ、立法議会を解散させた武力蜂起。

フランス革命の進行する中、立法議会で優勢となったジロンド派政府は、1792年4月に対オーストリア開戦に踏み切った。この戦争はフランスとオーストリアとの長期にわたる戦争のはじまりとなった。従来の貴族が指揮官を務めるフランス軍は準備不足もあり、またマリ=アントワネットを通じて情報が敵のオーストリア軍に流れていたりで、各地で敗北となり、さらにプロイセン軍も加わり、フランスの危機が強まった。

祖国は危機にあり

 7月11日、立法議会はジロンド派が提唱して「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を出し、国民衛兵に武装を命じ、さらに義勇兵の募集が始まった。バスティーユの日を記念する7月14日の連盟祭のために全国から集まった連盟兵に対し、ロベスピエールはジャコバン=クラブで「連盟兵への訴え」を発表し、立憲王政をたおし人民主権の樹立を訴えた。このとき、マルセイユの義勇兵が歌いながら行進した曲が「ラ=マルセイエーズ」である。パリでは48のセクションに蜂起コミューン(自治組織)が結成され、サンキュロットと言われる革命派の市民たちが結集した。8月1日、プロイセン軍を率いるブラウンシュヴァイク公は声明を出し、国王に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する、と脅した。マリ=アントワネットの要請を受けてのことであった。憤激したパリ市民は王権停止を議会に要請したが、回答期限の8月9日になっても解答はなかった。

サンキュロットと義勇兵の蜂起

   1792年8月10日、サンテール、アレクサンドルらの率いるパリのサンキュロットが「蜂起コミューン」を率い、連盟兵を連携してテュイルリー宮殿に進撃した。国民衛兵は国王の護衛を放棄し、宮殿はスイス人傭兵が護衛兵として守っていた。はげしい銃撃戦となり、護衛兵側は600名、蜂起側は400名の死傷者がでた。正午に宮殿は陥落。議場に逃れようとした国王ルイ16世一家はただちに監禁された。蜂起コミューン議長ユグナンは議会で蜂起の意向を陳述、議会は王権の一時停止、男性普通選挙制によって選出され立法議会にかわる新しい「国民公会」の召集を布告した。国王一家はコミューンの要求で8月13日からタンプル塔に監禁される事になった。
 この「8月10日の革命」または「第二革命」の主役はサンキュロットと義勇兵であった。同時にそれを指導したジャコバン派の力が大きかった。特に蜂起を扇動したダントンは、「8月10日の男」と言われて一躍脚光を浴び、翌日には司法大臣に任命された。またダントンの派手な動きとは別にロベスピエールも着実に地歩を固め、国民公会の主役となっていく。
8月10日事件
8月10日事件 芝生瑞和編『図説フランス革命』p.101

8月10日事件の意義

 山川詳説教科書の旧版では「8月10日事件」という事件名の記載が無く(2007年版からカッコ付きで記載されるようになった)、その前後の記述もあっさりしているが、これは単なる「事件」にとどまらず、フランス革命を立憲君主政体制あるいは穏健共和政から、山岳派主導の王政廃止、完全な共和政実現に向けて転換させた出来事である。実態はサンキュロットと義勇兵の武装蜂起であり、バスティーユ牢獄襲撃に続いて起こった市街戦であった。この事件は「第二革命」といわれることもある、重要な転機となる出来事であった。このサンキュロットの蜂起の成功によってフイヤン派(立憲王政派)は完全に没落し、舞台は国民公会でのジロンド派と山岳派の対立へと移り、さらに山岳派が権力を握ってジャコバン独裁へとむかうこととなる。
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ノートの参照
第11章3節 イ.立憲君主政の成立
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芝生瑞和編
『図説フランス革命』
1989 河出書房新社