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ラ=ファイエット

フランスの改革派貴族。アメリカ独立戦争に参加し、帰国後フランス革命を指導、人権宣言の起草にあたる。

 アメリカ独立戦争が1775年に始まると、ブルボン朝フランスの膠着した社会で改革を夢見ていたの若い貴族ラ=ファイエット侯爵(20歳)は大きな刺激を受けた。彼は1777年、国王ルイ16世の禁止にもかかわらず、フランスを離れ、スペインのパサヘス港から出航、アメリカに着いて、ワシントン将軍に合流した。7月31日アメリカ大陸会議によって陸軍少將に任命される。自費で部下の装備を補充し、兵士と苦楽をともにし、勇敢な将校として戦功をたて、ワシントンに次ぐ人気を得た。ラ=ファイエットの父は彼が2歳の時、七年戦争で戦死したので、それに対する復讐という反英感情があった。

フランス革命での立場

 フランスに戻り、1789年、フランス革命が勃発すると、貴族(第二身分)の立場ながら改革を支持し、国民衛兵の司令官に任命された。1789年の人権宣言の起草にあたった。しかし彼は国民議会では穏健な立憲王政派であったので共和派のジャコバン=クラブとは次第に対立するようになった。1791年7月には共和派を支持する民衆の請願を武力弾圧したシャン=ド=マルスの虐殺も行っている。
 なお、ラ=ファイエットは1978年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃の翌日、革命軍である国民衛兵(ガルド・ナショナル)の指揮官に任命された時、初めて青、白、赤の三色を兵士の徽章として採用した。それが、フランスの三色旗の始まりとされている。

オーストリアの捕虜となる

 1792年4月、ジロンド派内閣が対オーストリア開戦に踏み切ると、ラファイエットは国民軍総司令官として、オーストリア・プロイセンの連合軍と戦う前線に向かったが、各地の敗戦を聞いて進軍中止を命じた。同年の8月10日事件が起き、パリで国王が捕らえられ、王権が停止されたという知らせを聞くと、鎮圧して国王を救出しようとしたが、時すでに遅く、ラファイエットはパリに戻ることをあきらめ、国境を越えてオーストリアに亡命しようとして、投降した。しかしオーストリア軍は「立憲王政」と「共和政」の違いを理解できず、彼を革命の首魁として捕らえ、以後9月18日から5年間牢獄に繋いでしまった。

ナポレオンへの協力と離反

ブリュメール18日のクーデタでナポレオンが権力を握ると帰国し、当初は協力したが、皇帝就任には反対して遠ざかり、さらに復古王政にも協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在した。1830年に復古王政が倒された七月革命ではパリ国民軍司令官となった。1834年に77歳で没。息の長い革命家であった。