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パン=スラヴ主義(汎スラブ主義)

バルカン半島のスラヴ系民族の独立と統一をめざす思想であり、ロシアがその背後にあって、パン=ゲルマン主義と対立した。

 19世紀以来、バルカン半島に居住するスラヴ人の諸民族は、オスマン帝国支配下から脱しようとする動きを強めていった。ロシアは同じスラヴ系民族と言うことで、バルカンのスラブ系民族の独立運動を応援し、それによって自らのバルカンへの進出という南下政策の足がかりにしようとした。
 また、オーストリア帝国の支配を受けていたベーメンのチェコ人の間にもウィーン体制の時期に民族主義が台頭し、1848年に民族主義者パラツキースラヴ民族会議を組織している。この第1回会議はチェック人を中心とした運動であったため、スラブ系民族の統一した運動とはならなかった。会議が弾圧されるとパラツキーはオーストリア帝国内でのチェック人の自治獲得という穏健な主張に転換し、パンスラブ主義運動の中心はロシア人に移っていった。

バルカン半島のスラブ系民族

 1875年バルカン半島のボスニアとヘルツェゴヴィナで、スラヴ系のセルビア人がトルコに対する蜂起を始めた。かれらはギリシア正教徒であり、支配層のイスラム教徒への反発が根強かった。翌年は、ブルガリアでも正教徒の反乱が始まった。ロシアは正式な介入はしなかったが、多数の義勇兵が「バルカンの同胞を救え」というキャンペーンのもと、セルビアなどに支援に向かった。

露土戦争

 ロシアはすでに17世紀以来、南下政策を進め、広義のロシア=トルコ戦争(17~18世紀)で黒海沿岸を獲得していたが、さらにこの状勢を受けて、1877年にオスマン帝国との全面的な戦争露土戦争(ロシア=トルコ戦争)に踏み切った。この戦争で勝利したロシアは、バルカン半島への進出の足場を築こうとしたが、パン=ゲルマン主義を掲げて同じくバルカン方面に進出しようとするオーストリア=ハンガリー帝国や、西アジアからインドへの権益に対する脅威を感じたイギリスやフランスが反発して、ベルリン会議の開催となり、ロシアは後退を余儀なくされる。

パン=ゲルマン主義との対立

 こうして、バルカンを巡るパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立は、20世紀の初め、バルカン問題といわれる最も尖鋭な帝国主義と民族主義が重なり合った対立構造を作り出すこととなり、2度のバルカン戦争を誘因として、第一次世界大戦へとつながっていくこととなる。
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ノートの参照
第12章2節 イ.ロシアの改革