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マクシミリアン

ハプルブルク家の出身でナポレオン3世によってメキシコ皇帝(1864~67年)に推薦され、統治に当たったがメキシコ内乱で反乱軍に捕らえられ処刑された。

 マクシミリアンはハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。ロンバルディア=ヴェネト領邦の大公としてヴェネツィアにいたが、若い頃から各地を周り、自由主義的なロマンチストとして知られていた。

メキシコ皇帝となる

 1861年にフランスのナポレオン3世メキシコに出兵したが、メキシコ共和国軍の抵抗で苦戦しているとき、彼はメキシコに君主国を樹立し、カトリック信仰を復興させて民衆を統治できる体制をつくろうと考え、メキシコ皇帝としてマクシミリアンをあてることを考えた。マクシミリアンも旧スペイン=ハプスブルク家の領土であったメキシコにキリスト教帝国を作るというロマンに賭けることにし、1864年妻のカルロッタ(シャルロッテ)とともにメキシコのヴェラクルスに上陸した。
 皇帝マクシミリアンはメキシコ市に宮殿を建設し、自由主義的で理想的な君主政治を実践しようと、メキシコ風の服装なども採り入れて融和をはかった。しかしメキシコの人々はこの新皇帝に冷ややかで、フアレスらの抵抗も各地で続いていた。そのうち、ナポレオン3世は遠征費用が財政を圧迫するようになったこと、65年に南北戦争を終えて統一を維持したアメリカ合衆国の反発が強まっていることなどから撤兵を決意、マクシミリアンにも退位を勧めたが、彼はあくまで理想を追求するとしてその勧めを拒否、結局メキシコ共和国軍にとらえられて1867年6月19日に処刑されてしまった。その様子はフランスの画家マネの描く「マクシミリアンの処刑」で伝えられている。

Episode 皇后カルロッタの発狂

 マクシミリアンの妻カルロッタはベルギー国王レオポルドの王女であった。マクシミリアンに従ってメキシコに渡り、その皇后となった。賢明な女性であったカルロッタは懸命に夫を助け、新帝国を守ろうとした。しかし、マクシミリアンの皇帝としての地位が揺らぎ、彼自身も投げだそうと思うようになったが、カルロッタは必死に夫を励まし、退位を思いとどまらせた。状況の打開を図った彼女はヨーロッパに戻り、ナポレオン3世やウージェーヌ皇后にメキシコ帝国救済を懇願したが、ナポレオン3世は冷酷にメキシコからの撤退を彼女に伝えた。裏切られた彼女は遂に精神に異常をきたし、バチカンで発狂してしまう。メキシコのマクシミリアンの処刑後は故郷ベルギーの城に幽閉されたまま1927年まで生きながらえた。<大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』2008 中公新書 p.144-161>

マクシミリアンの処刑

 ハプスブルク家のマクシミリアンは1864年6月にメキシコのヴェラクルスに上陸、メキシコ市で皇帝として即位したが、メキシコ人の激しい抵抗に直面し、メキシコ内乱はますます激しくなり、メキシコ共和国臨時大統領フアレスは各地を転々としながらフランス兵・皇帝軍とのゲリラ戦を続けた。翌年、アメリカの南北戦争が終わるとアメリカがフランスに圧力を加え、ナポレオン3世もメキシコ出兵が割に合わないことに気づき、撤退を決断する。しかしロマンチストのマクシミリアンはメキシコ皇帝として最後まで残ると言って撤退を拒否、ついに共和国軍に捕らえられ、処刑された。

Episode マクシミリアンの最後

(引用)サポテカ人のフアレスは“私が皇帝を罰するのではなく、法律が、国民が処罰するのだ。”と言った。マクシミリアンはとうとう覚悟を決めた。“もはや、この不幸な国の争いに責任を感じていない”。善をなそうとしたマクシミリアンの気持ちは、歴史に甘やかされたヨーロッパの王子に、能力以上のことをさせたのかもしれない。1867年6月19日、ケレタロ市の町を見下ろすセロ・デ・カンパネス(鐘の鳴る丘)で35歳の皇帝は、最もメキシコ人らしい銃殺刑で死を全うした。刑の執行後、遺体を検分したフアレスが、“彼の脚は思ったほど長くなかった”と、つぶやいたことが伝わっている。<大垣貴志郎『物語メキシコ史』2008 中公新書 p.163>
出題 05年 早大(一文) 右の図はメキシコ皇帝となったオーストリア大公のマクシミリアンが処刑された事件をとりあげ、その悲惨な出来事を告発している。
 問1 この画家は『草上の昼食』など印象派の先駆的作例を示した作家である。その名前を答えなさい。
 問2 A-ドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』  B-この作品  C-ダヴィドの『ナポレオンのアルプス越え』 以上の三作品で描かれている出来事を年代順に並べなさい。

解答 → 


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大垣貴志郎
『物語メキシコの歴史』
2008 中公新書