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フランツ=ヨーゼフ1世

19世紀後半から20世紀初頭、ハプスブルク家のオーストリア皇帝。普墺戦争に敗れハンガリーを分離させた。

ハプスブルク家オーストリア皇帝(第3代)。1848年、三月革命の混乱の中で18歳で即位し、以後約70年近くにわたって皇帝であった。しかし彼の治世は、まさにハプスブルク家のオーストリア帝国が解体に向かって傾いていった時期であった。

ハンガリーの反乱とイタリア統一戦争

 まず、1848年の即位時にはコッシュートに率いられたハンガリーの独立運動に直面したが、それをロシアの援助でようやく抑え、オーストリア帝国を維持した。フランクフルト国民議会でドイツ統一問題が議論され、大ドイツ主義が優勢となり、オーストリア帝国がドイツ人居住地とそれ以外のハンガリーやベーメンが分離されそうになったため、それに強く反対した。
ついで北イタリアでは30年代から反オーストリア運動が続いていたが、1859年からサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世と結んで、北イタリアのオーストリア領ロンバルディアに攻め入り、イタリア統一戦争を開始した。この戦争はナポレオン3世が途中で単独講和ヴィラフランカの和約に応じたので、ロンバルディアを失ったがヴェネツィアなどを確保して終わった。

普墺戦争とアウスグライヒ

 この間台頭したプロイセン王国ビスマルクの主導で軍備増強に努め、オーストリアを挑発して1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)にもちこんだ。この戦争はオーストリアの一方的な敗戦に終わり、オーストリアは国内体制の変更に迫られ、いわゆるアウスグライヒ(妥協)を行ってハンガリー王国の独立を認めると共にフランツ=ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ねてオーストリア=ハンガリー帝国とするという二重帝国体制をとることとなった。オーストリア帝国が抱えていた多民族国家の弱点を克服する事を目指したののであった。こうしてドイツ統一の主導権はプロイセンが握ることとなり、普仏戦争の後、1871年にオーストリアを除外するかたちでドイツ帝国が成立した。

バルカン半島進出

 1873年にはビルマルクに協力して対フランスで結束し、ロシアと共に三帝同盟を結成したが、その後はもっぱらバルカン進出に向かい、スラヴ系民族とその背後にあるロシアとの対立を深め、三帝同盟は事実上効力を失った。1878年のベルリン条約ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を認められたが、1908年にはさらにボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に踏み切り、セルビアが強く反発することとなった。1914年6月、サライェヴォ事件が起きて皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻がセルビア人青年に殺されたことから、セルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦への導火線となった。フランツ=ヨゼフ1世は戦局が悪化する中、1916年11月に死去し、カール1世が継承したが、1918年の敗戦と共にハプスブルク家は中世以来の皇帝の位を失った。

Episode 悲劇の皇帝

 実質的な最後の皇帝であったフランツ=ヨゼフは、私生活においても悲劇がつきまとっていた。彼の弟マクシミリアンは人望のある人であったが、ナポレオン3世に担ぎ出されて、メキシコ皇帝となり、1867年革命に巻き込まれて異国の地で銃殺され、その王妃シャルロッテは狂気に陥った。フランツ=ヨゼフの皇太子ルドルフは科学を愛する青年であったが、一方で自由な恋愛に走り、容れられずに1889年に自殺してしまった。また美貌で知られた皇后エリーザベートは1898年にスイスでアナーキストによって暗殺された。そして皇位継承者にした彼の甥フランツ=フェルディナントは妻のゾフィーとともに1914年、サライエヴォ事件で暗殺された。あいつぐ身内の不幸に、老皇帝はしだいに政治に無関心になっていったという。<アーダム=ヴァンドルツカ『ハプスブルク家』1968 江村洋訳 谷沢書房 p.230~ 江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書>
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第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交
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江村洋『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書