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フランツ=ヨーゼフ1世

19世紀後半から20世紀初頭、ハプスブルク家のオーストリア皇帝。普墺戦争に敗れハンガリーを分離させた。バルカン半島への進出はロシアとの対立を深め第一次世界大戦をまねき、戦況不利の中、1916年に死去した。

 オーストリア=ハプスブルク家オーストリア皇帝(第3代)。1848年、ウィーン三月革命が勃発し、領内の諸民族の「諸国民の春」といわれる独立運動が激化する中で、18歳で即位し、以後68年にわたって皇帝にとどまり、第一次世界大戦最中の1916年に亡くなった。彼の治世は、まさにハプスブルク家のオーストリア帝国が解体に向かって傾いていった時期であった。

ハンガリーの反乱

 まず、1848年の即位時にはコッシュートに率いられたハンガリーの独立運動に直面したが、それをロシアの援助でようやく抑え、オーストリア帝国を維持した。フランクフルト国民議会でドイツ統一問題が議論され、大ドイツ主義が優勢となり、オーストリア帝国がドイツ人居住地とそれ以外のハンガリーやベーメンが分離されそうになったため、それに強く反対した。

イタリア統一戦争

 ついで北イタリアでは30年代から反オーストリア運動が続いていたが、1859年からサルデーニャ王国の首相カヴールがフランスのナポレオン3世と結んで、北イタリアのオーストリア領ロンバルディアに攻め入り、イタリア統一戦争を開始した。この戦争はナポレオン3世が途中で単独講和ヴィラフランカの和約に応じたので、ロンバルディアを失ったがヴェネツィアなどを確保して終わった。

普墺戦争とアウスグライヒ

 この間台頭したプロイセン王国ビスマルクの主導で軍備増強に努め、オーストリアを挑発して1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)にもちこんだ。この戦争はオーストリアの一方的な敗戦に終わり、オーストリアは国内体制の変更に迫られ、いわゆるアウスグライヒ(妥協)を行ってハンガリー王国の独立を認めると共にフランツ=ヨーゼフ1世がハンガリー王を兼ねてオーストリア=ハンガリー帝国とするという二重帝国体制をとることとなった。オーストリア帝国が抱えていた多民族国家の弱点を克服する事を目指したののであった。こうしてドイツ統一の主導権はプロイセンが握ることとなり、普仏戦争の後、1871年にオーストリアを除外するかたちでドイツ帝国が成立した。

バルカン半島進出

 1873年にはビルマルクに協力して対フランスで結束し、ロシアと共に三帝同盟を結成したが、その後はもっぱらバルカン半島進出に向かい、スラヴ系民族とその背後にあるロシアとの対立を深め、三帝同盟は事実上効力を失った。1878年のベルリン条約ボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を認められたが、1908年にはさらにボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に踏み切り、セルビアが強く反発することとなった。

第一次世界大戦

 1914年6月、サライェヴォ事件が起きて皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻がセルビア人青年に殺されたことから、セルビアに宣戦布告し、それが第一次世界大戦への導火線となった。フランツ=ヨゼフ1世は戦局が悪化する中、1916年11月に死去し、カール1世が継承したが、1918年の敗戦と共にハプスブルク家は中世以来の皇帝の位を失った。

Episode 悲劇の皇帝

 実質的な最後の皇帝であったフランツ=ヨゼフは、私生活においても悲劇がつきまとっていた。彼の弟マクシミリアンは人望のある人であったが、ナポレオン3世に担ぎ出されて、メキシコ皇帝となり、1867年革命に巻き込まれて異国の地で銃殺され、その王妃シャルロッテは狂気に陥った。フランツ=ヨゼフの皇太子ルドルフは科学を愛する青年であったが、一方で自由な恋愛に走り、容れられずに1889年に自殺してしまった。 また美貌で知られた皇后エリーザベートは1898年にスイスでアナーキストによって暗殺された。そして皇位継承者にした彼の甥フランツ=フェルディナントは妻のゾフィーとともに1914年、サライエヴォ事件で暗殺された。 あいつぐ身内の不幸に、老皇帝はしだいに政治に無関心になっていったという。<アーダム=ヴァンドルツカ『ハプスブルク家』1968 江村洋訳 谷沢書房 p.230~ 江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書>

Episode 皇太子の自殺

 皇帝フランツ=ヨーゼフと皇后エリザベートの間に生まれた皇太子ルードルフは、弱々しい子供時代からは想像もできない偉丈夫に育った。しかし父皇帝は誰にも権力を移譲したくないという自分の考えを忠実に守って、ルードルフをいつまでも子供扱いして一切国事にかかわらせようとしなかった。ルードルフは欲求不満からかよからぬ仲間とつきあうようになった。結婚相手も父が選んだベルギー王の娘があてがわれた。ルードルフは軍隊では人気がり、プレーボーイでもあったが、父親に強い不満を持つようになったようだ。1889年1月28日、ウィーンの森の狩猟館の中で31才のルードルフとヴェツェラ男爵令嬢で17才だったマリーの屍体が見つかった。マリーの屍体は花で覆われ、撃たれたことが明らかで、ルードルフが撃ったあと自殺したことは明白だった。マリーの屍体は新聞記者が駆けつける前に近くの修道院に運ばれ、ルードルフは自殺ではないとされて教会に埋葬された。事件の真相は今も判らない。マリーはルードルフを愛していたと思われるが、ルードルフがマリーを愛していたかどうかは判らない。母と妻宛の遺書があったが父への手紙はなかった。現場の狩猟館は宮廷の命令で取り壊され、その跡地にはカルメル派の修道院が立てられている。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.109-112>

Episode 美しき皇后エリザベート


皇后エリザベート
 フランツ=ヨーゼフ1世は1854年、ヴィッテルスバッハ家バイエルン王の孫娘、エリザベートとウィーンで結婚した。16才の皇后は美貌で知られ相愛の仲であった。10年後には長男ルドルフも誕生した。しかし、エリザベートは次第にウィーンの宮殿から抜け出し、自由に振る舞うようになった。フランツ=ヨーゼフの母ゾフィーが厳格で、嫁と姑の関係が悪かったらしい。エリザベートはたびたびハンガリーのブダペストを訪ね、ハンガリー貴族と交わるうちにハンガリーの独立に理解を示すようになり、夫にたくさんの手紙を書いて訴えている。政治に口出しすることのなかったエリザベートが唯一、夫を動かそうとしたのがハンガリーの自立だった。
 その後も皇后エリザベートの一人で馬に乗って飛び出すなど紀行が絶えなかった。精神不安はおさまらず、ほとんどウィーンに戻らない状態が続く中、フランツ=ヨーゼフ1世の晩年に近い1898年、スイスのジュネーヴでアナーキストに刺されて亡くなった。自由奔放にふるまう美貌の皇后の様々な憶測を呼んでいるが、ウィーンやブダペストでは今でもその愛称“シシィ”で呼ばれ、人気が高く、その住居は観光名所となっている。
(引用)ウィーンでは彼女のことをとっくの昔から「奇妙な女」と呼びならわしていた。その由来の一つは、風変わりな日常生活にもあった。シシィは若さと美貌を永遠に保ちたいと美容に心がけ、20代から肉食を断ち、野菜ジュースと果物しか摂取しなかった。フランツ=ヨーゼフは彼女があまりに痩身に凝るので、まるで針金みたいだとからかったこともあった。皇后は子供を出産して体型の崩れるのをいたく嘆いた。彼女の長く垂らした髪は有名で、シシィの自慢の種でもあった。これを手入れする女官たちは大変な気苦労をした。皇后の髪の毛を一本でも抜こうものならば、どのような叱責をこうむらないとも限らなかったからである。そこで彼女たちは一計を案じ、髪の手入れの際には糊をつけたスカートをはき、抜け落ちた髪がそこに付着するようにしたという。・・・<江村洋『ハプスブルク家の女たち』1993 講談社現代新書 p.178>
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ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交
書籍案内

江村洋『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

江村洋『ハプスブルク家の女たち』
1993 講談社現代新書

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社