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ハプスブルク家

中世以来、神聖ローマ皇帝位を継承した有力な家系。オーストリアを本拠とし、ドイツ王の地位を兼ねたほか、婚姻政策で領土を拡大、ヨーロッパに広大な領土有するようになる。

 13世紀から19世紀に至る神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。15~16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大なハプスブルク帝国とも言われる支配権を持ち、全盛期を迎える。その歴史は13世紀から19世紀に及ぶが、ヨーロッパ史の軸となる存在であった。

スイスの一地方領主として始まる

 もとはライン川上流のスイスのアールガウ地方という山岳地帯のハプスブルク城(鷹の城の意味)の小領主として出発した。10世紀ごろにライン上流の南ドイツに領土を拡大して次第に頭角を現わした。

オーストリアへの進出

 神聖ローマ皇帝は代々イタリア政策に力を入れ、その結果、ローマ教皇と対立して叙任権闘争を戦うこととなったため、本国のドイツには手が回らず、おのずとドイツ諸侯は自立するようになり、皇帝を有力諸侯から選出する慣行が出来上がった。シュタウフェン朝が断絶した後、ベーメンオタカル2世の勢力が強大化したことを受け、1273年、ドイツ諸侯は、新たなドイツ王(皇帝)としてスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルードルフ1世を選出した。ルードルフにとっても意外なことであったらしいが、それを認めなかったベーメン王オタカル2世を1278年、マイヒフェルトの戦いで破り、ベーメン王国からオーストリアを領地として奪った。ハプスブルク家はスイスの領地で住民の独立運動が激しかった為もあり、またより広大で肥沃な土地を求めて、オーストリアに拠点を移した。これがハプスブルク家繁栄の基礎となった。1315年にスイスの独立を認めたので、ハプスブルク家はオーストリアを本国とし、ウィーンを都とすることとなる。

神聖ローマ皇帝位を独占、婚姻政策を展開

 その後、皇帝位はベーメンのルクセンブルク家などが選ばれ、1356年には金印勅書によって7選帝侯によって選出されることになった。ハプスブルク家は選帝侯にはならなかったが、領土経営に専念し、1438年に皇帝に選出されてからは、帝位を独占、ヨーロッパでの最大の勢力に成長していく。その後、ハプスブルク家は積極的な婚姻政策でヨーロッパの有力な諸家と結びつきながら領土を拡大、特に15世紀末のマクシミリアン1世の時にはブルゴーニュ公国、ネーデルラントを獲得、息子のフィリップをスペイン王女と結婚させ、スペインもその支配下に置いて、広大なハプスブルク帝国を建設した。

フランスとのイタリア戦争

 このハプスブルク家領に国土を夾まれる形になったフランス(ヴァロア朝)は、強い危機感を抱き、イタリアに進出することで活路を見いだそうとして両者の間にイタリア戦争が始まる。それは1494年のシャルル8世の南イタリア遠征に始まるが、特に16世紀前半のハプスブルク家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世の対立として激化した。このときカール5世はマゼランの世界周航が行われ、アメリカ新大陸だけでなく太平洋方面にも植民地を獲得したが、一方で支配下のドイツでのルターの宗教改革が始まり、東方からのオスマン帝国軍によるウィーン包囲(第1次)を受けるという多面的な脅威にさらされていた。この危機はどうにか回避しハプスブルク帝国の体制を維持したが、フランスもハプスブルク帝国も長引く戦争は財政破綻をもたらし、1559年カトー=カンブレジ条約で講和した。

ハプスブルク家の分裂

 1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位するにあたり、広大なハプスブルク帝国を一人で統治することは不可能と考え、ハプスブルク家は弟のフェルディナントのオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家とに分割することにした。こうしてハプスブルク帝国は分割され、ハプスブルク家も二つの家系に分かれることとなった。スペインは16世紀後半、フェリペ2世の時にネーデルラントや南イタリアなどの領地の他にポルトガルも併合し、広大な海外植民地を有して「太陽の没することのない大帝国」となった。

神聖ローマ帝国の事実上の消滅

 16世紀から17世紀前半のヨーロッパは激しい宗教戦争が続いたが、その間、両ハプスブルク家はいずれもカトリック側の中心勢力としてプロテスタント勢力と戦った。しかしスペインは1588年に無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、オランダ独立戦争によってオランダの独立を認めたことによって、衰退が始まる。また神聖ローマ帝国のオーストリア=ハプスブルク家の支配下にあるドイツでは新旧両派の領邦が争った三十年戦争が続いて国土は荒廃し、1648年のウェストファリア条約で各領邦の独立が認められて、神聖ローマ帝国は事実上その実態が無くなり、事実上オーストリアを支配するだけとなった。

オーストリアの大国化

 16世紀の宗教内乱ユグノー戦争を克服して主権国家体制を整えたフランスのブルボン朝がハプスブルク家の強力なライバルとなってきた。ルイ14世は17世紀後半に盛んに侵略戦争を展開し、オランダだけでなくスペインとオーストリアのハプブルク家領を浸食していった。スペイン=ハプスブルク家は1700年に断絶し、スペイン継承戦争が勃発、スペイン王室はフランスのブルボン家が継承することとなった。一方のオーストリアはオスマン帝国の衰退に乗じて1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを獲得、さらに18世紀初めにスペイン継承戦争でスペイン領が手放した南ネーデルラントやミラノ、ナポリなどを獲得してヨーロッパの大国となった。しかし、神聖ローマ皇帝カール6世には男性継嗣が無く、ハプスブルク家の家督相続に問題が生じる恐れたあったので、プラグマティッシェ=ザンクティオンといわれる家督相続法を制定、女子の相続を可能にした。

プロイセンとの抗争

 大国オーストリアの新たな敵として登場したのがプロイセン王国であった。1740年、カール6世の死去により、ハプスブルク家の家督を女性のマリア=テレジアが継承すると、プロイセンのフリードリヒ2世はそれを認める条件としてシュレジェンの割譲を要求し、拒否されるとオーストリアに侵攻してオーストリア継承戦争が起こった。また彼女の家督相続を認めないバイエルン公などは皇帝の地位をねらい、またフランスのルイ15世もそれに同調して参戦し、1742年にはバイエルン公カール7世が帝位につき(ヴィッテルスバッハ朝)、ハプスブルク家の帝位は一時途絶えた。オーストリアは劣勢の中で講和し、シュレジェンの割譲を認めざるを得なかった。しかし、マリア=テレジアのハプスブルク家相続は認められ、また神聖ローマ皇帝には1745年からその夫フランツ1世(ロートリンゲン家)が選ばれた。男系としてはハプスブルク朝は途絶えたので、フランツ1世以降をハプスブルク=ロートリンゲン朝という。

マリア=テレジア

 その後、マリア=テレジアは外交革命といわれるフランスとの提携に成功し、再びオーストリアと七年戦争(1756~63年)を戦った。結局シュレジェンの奪回はできなかったが、マリア=テレジアは実質的な女帝として帝国の中央集権化などを進め、フランツ1世の死後、皇帝となったその子ヨーゼフ2世と共同統治する形をとり、オーストリアの大国としての地位を維持した。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝

 ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、近代化政策を進めたが、不徹底であったために、多民族国家としての苦悩は次第に深まり、チェコやハンガリーの民族運動が激しくなっていった。フランス革命及びナポレオン戦争はハプスブルク帝国にも深刻な影響をもたらし、1806年にはついに神聖ローマ帝国が消滅、ハプスブルク家はオーストリア帝国の皇帝としてのみ存続することとなる。しかし、その支配領域内の民族運動で悩まされ、1848年に即位したフランツ=ヨゼフ1世は、普墺戦争に敗れたため、1867年のアウスグライヒ(妥協)によってハンガリーの事実上の独立を認め同君王国とした(オーストリア=ハンガリー帝国)。彼は実質的な最後のハプスブルク家の皇帝として第一次世界大戦中の1916年まで生存したが、大戦の敗北とともにその子カール1世が1918年に退位し、ハプスブルク家は歴史の表舞台から消え去った。
<以上、江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書 /菊池良生『戦うハプスブルク家』講談社現代新書 など>
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ノートの参照
5章3節 コ.ドイツ・スイス・イタリア・北欧
8章4節 ウ.スペインの全盛期
書籍案内

江村洋『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

菊池良生『戦うハプスブルク家』
講談社現代新書