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アウスグライヒ

普墺戦争の翌年の1867年、オーストリア皇帝がハンガリー王国の独立を認めた「妥協」のこと。これによって「オーストリア=ハンガリー帝国」といわれる二重国家が成立した。ハプスブルク家当主が皇帝と国王を兼ね、両国が政府と議会を持ち、外交・軍事・財政では共通政策を採るという国家体制であった。

 アウスグライヒ Ausgleich (ハンガリー語ではキエジェゼーシュ Kiegyezés)とは、妥協を意味するドイツ語である。オーストリアは、1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)での敗北によって国内体制の再建に迫られ、長らく問題となっていた帝国内のハンガリー(マジャール人)の分離独立の要求に応えざるを得なくなった。
 1867年にオーストリア帝国からハンガリー王国を独立さることとしたが、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世はハンガリー王を兼ねる協定をハンガリー王国の国会との間に結んだ。形式的な独立を認める代わりに、同一君主を戴く国家として、実質的支配を維持しようとした“妥協”だった。この協定によって、ハンガリー王国はハプスブルク家の国王のもとで独自の政府と国会を持つが、外交・軍事・財政では共通の方針に従うという二重帝国の形態がとられた。これがオーストリア=ハンガリー(二重)帝国といわれる国家であった。
 この二重国家体制は、第一次世界大戦で敗れたことによって、1918年11月に解体する。 → オーストリア共和国の成立

Episode 妥協の裏に美貌の皇后あり

 ハンガリー人にとって、オーストリアからの自立(ただちに独立とは行かなくとも)することは悲願であった。オーストリアはかつてコシュートらのハンガリーの民族運動をことごとく弾圧してきたので、ハプスブルク宮廷の中にハンガリー側の声を受け止める人はいなかった。ところが、その中で皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の皇后エリザベータ(愛称シシィ)だけは違っていた。エリザベータはウィーンの宮廷には居着かず、あちこち気儘に旅行する、当時としては珍しい(奇行とも言える)行動をする女性だった。彼女はハンガリーのブダペストを何度も訪れ、大変気に入り、難しいといわれるハンガリー語も習得し、ハンガリー人のいうことに耳を傾けた。背景には義母のゾフィー(皇帝の母)が皇太子ルドルフをエリザベータから取り上げてしまったことなどで悪化した嫁と姑の関係があるとも言われている。夫の皇帝との仲も冷えていったが、1866年、普墺戦争が始まると、エリザベート皇妃は「閉じこもった自分の殻から抜けだして、病院と福祉事業に熱心に取り組んだ。フランツ=ヨーゼフとの和解がなった。エリザベートは敗戦後、プロイセン軍がウィーンに進軍してくることを考えて、子供たちをブダペストへ連れていき、そこに滞在したまま、自分が好意をもつハンガリー人の主張を擁護する手紙を次から次へと、あくことなく皇帝に寄せた。」
 このエリザベータの努力が、フランツ=ヨーゼフとオーストリア宮廷を動かし、翌年まで交渉が続いた結果、1867年に「妥協」として知られる合意が案出されたのだった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.98,102>

二重国家体制=アウスグライヒ体制

「均衡」をつくりだす  アウスグライヒは一般に「妥協」と訳されるが、「グライヒ=均衡」をつくり出す、という意味もあった。オーストリアとハンガリーの「妥協、均衡」からうまれたこの二重帝国とは、どのようなしくみだったのだろうか。「アウスグライヒ法」に基づいた国家体制なので「アウスグライヒ体制」ともいわれる「二重国家」の要点を、大津留厚氏の『ハプスブルクの実験』などの著作によってまとめると次のようになろう。
  • 皇帝と国王 オーストリアは皇帝が統治し、ハンガリーは国王が統治する。オーストリア皇帝とハンガリー国王はハプスブルク家の当主が兼ねる(つまり同一人物)。主権は皇帝=国王なので、その点からは「オーストリア=ハンガリー帝国」という一国の体裁をとる。しかし、この二国は「一人の人格によってのみ結びつけられたゆるい国家連合」なのではない(つまり歴史上存在した同君連合とは異なる)。
  • 政府と議会 それぞれ自立した政府と議会を持つ。行政はそれぞれの政府が担当し、オーストリア政府は皇帝に、ハンガリー政府は国王にそれぞれ責任を負う。それぞれの政府には首相が任命された。議会として、オーストリアは帝国議会、ハンガリーは王国議会が置かれた。
  • 外交、軍事、財政は共通分野 二国が一つの国家として機能する分野が共通分野として定められていた。それは外交と軍事と、それにかかる戦費をまかなう財政の三分野であった。それぞれ共通外務大臣、共通陸軍大臣、共通大蔵大臣がおかれた。ただし、それぞれ個別に皇帝と国王に責任を持つので、共通内閣はおかれなかった。
  • 共通議会 共通業務に関しては、帝国議会、王国議会からそれぞれ60名ずつ選出される共通議会がおかれた。共通議会はウィーンとブダペストで交互に開催されたが、両国代表団は別室で審議して議決を互いに送付した。その決定に違いがあるときは合同で会議を開くことが可能だったが、議長は両代表団の議長が交代で務めた(どちらを先にするかはクジ引きで決めた)。このように相互の議会の独自性と対等性を重要視した形になっていたが、議会は立法機能は無く、もっぱら共通外務省、共通陸軍省の予算を審議し、それを承認または否認することが役割であった。
評価と問題点 このようにアウスグライヒ体制は慎重に両国の対等性を保障しながら、ハプスブルク帝国としての一体性も維持しようという巧妙なしくみがほどこされていた。それは「ハプスブルクの実験」の試みともいえるもであった。最近では、現在のヨーロッパ統合の動き(EU)の先駆的な試みとして注目する向きもあり、その成功と失敗はいずれも現在にも一定の示唆を与えると考えられている。 このように巧妙に組み立てられていたアウスグライヒ体制であるが、次のような点で永続性は困難だった。
  • 根本的に両国の意識に食い違いがあったこと。オーストリアにとっては「単一・不可分な帝国の二つの対等な部分である」という認識であったが、ハンガリー側は「対等な二国の連合国家」と理解していた。
  • 両国の経済的格差 オーストリアは工業化が進んでおり、ハンガリーは農業生産国であったので、オーストリアは穀物・肉など食糧をハンガリーから、ハンガリーは工業製品をオーストリアからそれぞれ得るという経済同盟、依存体質があった。それは、ハンガリーが製粉業を中心とした工業化を開始することによってバランスが維持できなくなった。
  • それぞれが被抑圧民族を抱えていたこと。アウスグライヒによってオーストリア人(ドイツ人)とハンガリー人(マジャール人)は対等(表向きは)になった。しかし、帝国内にはまだ多くの民族が存在した。オーストリアでは1867年憲法が「民族の平等」、特に言語などの民族固有の権利の保障が謳われたので、ボヘミア・モラビアのチェコ人は、自分たちにもアウスグライヒを認めよと運動を開始した。またハンガリーでは、クロアティア人・スラヴォニアには大幅な自治が認められたものの、ルーマニア人(トランシルヴァニア)やスロヴァキア人(北部ハンガリー)には認められず、ハンガリー化の脅威が強まった。
<大津留厚『ハプスブルクの実験』1995 中公新書 p.34-35/同『ハプスブルク帝国』1996 山川世界史リブレット30 p.38-45>
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第12章2節 カ.ドイツの統一
書籍案内

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社

大津留厚
『ハプスブルクの実験
多文化共存をめざして』
1995 中公新書

大津留厚
『ハプスブルク帝国』
世界史リブレット 30
1996 山川出版社