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チェコ

第二次世界大戦後はチェコスロヴァキア社会主義共和国を構成していたが、1993年、スロヴァキアと分離して単一民族国家となった。

チェコ人の国家

 チェック人(チェコ人)の多い、ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア地方がチェコと言われる。9世紀には大モラヴィア王国、10世紀にはベーメン(ボヘミア)王国が成立。1620年にオーストリアのハプスブルク帝国の支配下にはいり、その後中区支配された。しぱし、プラハを中心としたボヘミア地方は商工業が発達、ハプスブルク帝国の中心都市としてウィーンに対抗するようになる。
 19世紀の民族主義(ナショナリズム)が紅葉した時期に、チェコ人の間にも独立運動が起こり、ハプスブルク帝国の支配にしばしば抵抗するようになった。その運動は第一次世界大戦の勃発と共に高揚して、1918年、スロヴァキアとともにチェコスロヴァキア共和国(第一共和国)として独立した。
 しかし、ナチスドイツが台頭すると、ヒトラーはチェコにおけるドイツ人住民の多いズデーテン地方の併合をめざし、ミュンヘン協定でそれを国際社会に認めさせると、それをテコに、チェコ全土を併合してしまった。

連邦国家チェコスロヴァキア

 第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアは独立回復から社会主義化へ複雑な経過をたどり、1948年から社会主義体制をとるチェコスロヴァキア社会主義共和国となった。しかし、1960年代にはソ連を中心とした東欧圏の社会主義経済が行き詰まり、チェコでも民主化を求める動きが強まった。1968年には「プラハの春」といわれた民主化の試みが行われたが、ソ連軍とワルシャワ条約機構軍が侵攻するというチェコ事件で弾圧され、その後もチェコスロヴァキアの民主化運動は厳しく取り締まられた。
 1989年の一連の東欧革命の中で、ようやくチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)を達成。その直後からチェック人とスロヴァキア人の間で民族主義的な主張が強まった。チェコ側はスロヴァキアの工業原料を確保したい思惑から、分離に反対する意見が強かったが、スロヴァキアの分離要求が強く、1992年の議会で分離が決定し、1993年1月を以てチェコスロヴァキアの連邦解消に踏み切った。

チェコ共和国の分離独立

 チェコ共和国 Czech Republic は、1993年にスロヴァキアと分離し、独立した。面積約7万8千平方km(日本の約5分の1)。人口約1千万。首都はプラハ。初代大統領は、チェコスロヴァキア民主化運動の指導者ハヴェルが務めた(1993~2003年)。1999年にはNATOに加盟、2004年にはEUに加盟した。
ヴィシェグラード=グループ 1991年2月、分離する前のチェコスロヴァキアとポーランド、ハンガリーの三国首脳がハンガリーの都市ヴィシェグラードに集まり、歴史的・文化的に関係の深い三カ国が経済協力を進め、ヨーロッパ統合にも協力することを取り決めた。チェコとスロヴァキアは分離後もこのこのヴィシェグラード=グループにともに加盟をつづけており、現在グループは4ヵ国となっている。ヴィシェグラードは、1335年にハンガリー王、ポーランド王、ボヘミア王が会談を行い、商業ルートの設置や各国の政治協力を話し合った場所であった。現在、ヴィシェグラード=グループはヨーロッパ共同体の一部を構成する地域共同体として存在意義が注目されている。
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