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クロアティア/クロアティア人

バルカン半島北部の南スラブ系民族でカトリックを受容。10世紀頃に王国を警世したが、その後はオスマン帝国、ハプスブルク帝国などの支配を受ける。第一次大戦後はユーゴスラヴィア王国、第二次大戦後はユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦を構成した。1991年に連邦から分離独立した。

クロアティア人

 スラヴ人の中で、セルビア人やスロヴェニア人と同じく南スラヴ人に属する。バルカン半島北部のパンノニア(内陸部)とダルマチア(海岸部)を支配し、10~11世紀には独立したクロアティア王国であったが、その後、ハンガリーやヴェネツィア、さらにオスマン帝国、ハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の支配がつづき、長く独自の国家を持つことはなかった。第一次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア王国、及び第二次世界大戦後のユーゴスラヴィア連邦共和国でその一部を構成したが、常にセルビア人との対立感情が存在し、ユーゴスラヴィア連邦の解体の先鞭をつけて1991年6月に独立を宣言し、近代以降では初めてクロアティア人国家をもった。
 → (1)クロアティア王国  (2)ハプルブルク帝国による支配  (3)ユーゴスラヴィアへの参加  (4)ユーゴスラヴィア内戦とクロアティア独立

(1)クロアティア王国

ローマ=カトリックの受容

 7世紀ごろ、パンノニアとダルマチア地方(アドリア海沿岸)に定住。アヴァール人の侵入を受けたが、8世紀末、フランク王国のカール大帝のアヴァール人討伐に協力。その後、フランク王国の支配を受け、ローマ=カトリックを受容する(一部、ギリシア正教のスラヴ語典礼も残る)。また彼らの言語をラテン文字(ローマ字)で表記するなど、ラテン化が進んだ。

クロアティア王国

 その後、フランク王国とビザンツ帝国の間にあってその対立を巧みに利用しながら、10世紀初めに独立してクロアティア王国と称した。11世紀後半にはダルマチア地方を併合して、クロアティア王国は最盛期となった。しかしパンノニア地方でのハンガリー(マジャール人)との争いがつづき、1102年にはハンガリー王国の支配を受け入れ、同君連合の形態となり、12世紀以降は実質的にハンガリーの支配を受ける。15世紀にはアドリア海に面したダルマチア地方をヴェネツィアと争って敗れ、内陸部が分断されてしまった。

オスマン帝国とハプルブルク帝国の支配

 1526年、オスマン帝国のスレイマン大帝がモハーチの戦いでハンガリー軍を破り、ハンガリー王が戦死すると、クロアティア内陸部は一時オスマン帝国の支配を受けるが、1699年のカルロヴィッツ条約オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)に組み込まれた。オーストリア帝国はこの地にセルビア人を入植させ国境防備に当たらせた。
 フランス革命・ナポレオン戦争を経て、ウィーン体制の時代には自由と民族の独立を求める運動が、全ヨーロッパで活発になった。ハンガリーでもオーストリア帝国の支配からの独立を求める運動が活発になった。

(2)ハプルブルク帝国による支配

1699年以来、オーストリア=ハンガリー帝国のもとでハンガリーに属した。ハンガリーの反ハプスブルク運動ではそれを抑圧する側にまわった。次第にスラブ民族として自覚と独立志向が強まる。

 クロアティア人は南スラヴ系民族であるが、8世紀ごろからローマ=カトリックを受容してラテン化が進んでおり、同じ南スラヴ系でもギリシア正教徒の多いセルビアとは宗教的な違いがあった。またセルビア語とクロアティア語はほとんど差がなかったが、使用する文字はセルビア人のキリル文字に対して、クロアティア人はラテン文字であった。そのような歴史的、文化的な面での違いは、クロアティアが17世紀末からハプスブルク帝国の支配下に入り、セルビアは独立国家としてロシアの汎スラブ主義に接近していくという違った道を歩むこととなった。

ハンガリー民族運動を抑圧

 1848年革命で民族主義が高揚し、「諸国民の春」といわれた革命が各地におこると、クロアティアでもハンガリー(マジャール人)からの自治を求める運動が起こったが鎮圧され、そのハンガリーがオーストリアからの分離独立を求めて起ち上がると、反ハンガリー感情からハンガリー民族運動を抑圧するためのクロアティア人部隊が組織された。イエラチッチによって指揮されたクロアティア人部隊はハンガリー独立運動を抑圧する先頭に立った。イエラチッチはオーストリア皇帝からクロアティア総督に任命され、ダルマチアとリエカ(イタリア名フィウメ)を併合した。しかし自治は認められず、その実権は奪われた。
 1867年に普墺戦争の敗北を機にオーストリアはハンガリーの形式的な独立を認めオーストリア=ハンガリー帝国になると、クロアティアはハンガリーの一部としてハンガリー政府の支配下に入り、それが消滅する1918年まで続く。オーストリア=ハンガリー帝国からの独立をめざすクロアティア人の民族的願望は内陸部と海岸部(ダルマチア地方)の統合であった。

(3)ユーゴスラヴィアへの参加

第一次世界大戦後の民族自決の動きに沿い、ユーゴスラヴィア王国が独立、クロアティアもその一員となる。しかしセルビア人との対立が次第に深刻となる。

スラブ民族としての自覚の高まり

 19世紀の民族主義高揚の時期に、ハンガリーからの独立を目指す運動が始まり、次第に南スラヴ人と一体となった国家形成を目指すようになった。第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したのを受け、1918年にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国が成立、クロアティア人はその一部を構成することとなった。

ユーゴスラヴィア王国を構成

同国は1929年にユーゴスラヴィア王国となった。しかし、同国はセルビア人による集権化が進み、それに対してクロアティア人はゆるい連邦制を主張して対立し、王国内の「クロアティア問題」と言われた。
ウスタシャの出現 おりからの世界恐慌の波及もあってクロアティア内部に「純粋なクロアティア人の国家」を標榜するファシスト集団ウスタシャが生まれた。ウスタシャはセルビア人に対するテロ活動を行い、さらに1934年にはその一員が国王アレクサンダル(セルビア人)を暗殺、それを機に、ユーゴスラヴィア王国政府はクロアティアに一定の自治権を認めるなどの譲歩を行った。

ドイツの侵攻と傀儡政権

 第二次世界大戦では1941年4月6日、ドイツ軍はバルカン侵攻を開始、チェコスロバキアに対してとった政策と同じような民族分断策を採り、クロアティアには独立を認めて「クロアティア独立国」という傀儡政権を作り、ボスニアをも支配させた。政権を与えられたファシスト集団ウスタシャはナチスドイツに倣った偏狭な民族主義を掲げ、ユダヤ人やロマと同じように、セルビア人への憎悪をかき立てて排除を図った。なお、クロアティア独立国は枢軸国に加わり、日本も承認した。
チュトニクの出現 それに反発したセルビア人民族組織チュトニクとの間で凄惨な殺し合いがあった。一方ユーゴスラヴィア王国政府はロンドンに亡命したが、亡命政権の中でもセルビア人とクロアティア人が対立し、統一した抵抗運動を指導することはできなかった。

(4)ユーゴスラヴィア内戦とクロアティア独立

第二次世界大戦でのドイツ軍とのパルチザン闘争を指導したクロアティア人のティトーを中心に、社会主義国ユーゴスラヴィア連邦が成立し、その一員となる。しかし、ティトーの死後、分離運動が表面化し、1991年、分離独立を宣言、セルビアとの激しい内戦となり、1995年に停戦した。

クロアティア人ティトー

 クロアティア人のユーゴスラヴィア共産党員ティトーはドイツ軍に対する抵抗、パルチザン闘争を続け、総司令官としてユーゴスラヴィア独立を勝ち取り、戦後の実権を握った。ティトーの指導する社会主義国ユーゴスラヴィア連邦は民族対立を超えた社会主義の実現を目指し、クロアティアはボスニアを放棄して内陸部と海岸部を合わせて連邦を構成する一つの共和国となった。

ユーゴスラヴィア連邦とクロアティア

 問題はクロアティア共和国内部にも少数ながらセルビア人が居住しており、戦争中のウスタシャとチュトニクの殺し合い以来の両者の対立感情はくすぶっていたことであった。またクロアティアは中心都市ザグレブなど工業が発達し、またアドリア海に面したダルマチア地方など、商工業が他のユーゴ諸連邦より豊であったにもかかわらず、他の連邦内の貧しい地域に富が流出することにも不満が高まっていった。

1970年 「クロアティアの春」

 1970~71年にかけて、クロアティアで、クロアティア共産主義者同盟改革派・民族派知識人に学生が加わり、「マス・ポク(大衆運動)」と称される大規模な自治要求運動が展開され、ストライキが繰り返された。クロアティア共和国政府が連邦に対し、経済計画、予算、税制などを自由に決定できる政治・経済上の権利拡大を要求したものであり、これは「クロアティアの春」と呼ばれる民族主義運動の始まりであり、権利拡大に留まらず、独立要求にまで高まることになる。それを受けてユーゴスラヴィア連邦政府は1974年憲法を制定し、自由化と分権化に大きく妥協した。その動きを加速させたのが1980年のティトーの死であった。

クロアティアの独立宣言

 1989年の東欧革命から始まった東欧諸国の共産党一党支配の崩壊、複数政党制による自由選挙という自由化・民主化の波は、翌1990年ユーゴスラヴィアに波及し、連邦内の各共和国は自由選挙を実施し、政権をそれぞれ選択することとなった。その選挙で大勝したトゥジマン大統領のもとで12月にクロアティア共和国憲法が制定され、クロアティア人の千年にわたる国家性を保持することが強調され、クロアティア語を公用語とし、ラテン文字を使用することを定めた。翌1991年を以て独立を宣言、となりスロヴェニアとともにユーゴスラヴィア連邦から分離した。

セルビア人との内戦の泥沼化

 連邦制を維持するか国家連合体に移行するかはこの時点では定まっていなかったが、トゥジマン政権が独自の軍隊の編成に着手したことに対してユーゴスラヴィア連邦政府が反発し、武装解除命令を出したところから対立が表面化した。同じく独立宣言を出した隣のスロヴェニアでも91年6月、連邦政府軍との衝突が起こり、ユーゴスラヴィア内戦が始まった。クロアティアにとって問題だったのは、共和国内に多数のセルビア人が存在することであり、共和国軍とセルビア人武装勢力の衝突が繰り返され、内戦が深刻化した。両者の対立は第二次大戦中のウスタシャとチュトニクの殺しあいを想起させ、さらに民族対立は92年にはボスニア内戦へと転化し、泥沼化していった。

武力による解決に向かう

 ドイツが単独でクロアティア・スロヴェニアを承認したことがさらに問題を深刻化した。それに対抗したクロアティア内のセルビア人が、同様な民族自決の権利を主張して「クライナ=セルビア人共和国」の独立を宣言したのだ。翌92年2月国連安保理は約1万4千の国連保護軍の派遣を決定、戦闘は一旦収まったが、「セルビア人問題」はさらに長期化した。1995年に入り、クロアティアのトゥジマン政権はアメリカの容認を受けて、セルビア人勢力に対する武力攻撃を再開し、8月までに一気に制圧し、11月にセルビア人勢力はその支配権を放棄して内戦は終結した。<以上 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波書店 などによる>

現在のクロアティア

クロアチア国旗  クロアティアはユーゴ内戦中の1992年にスロヴェニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナと共に国際連合の加盟が認められ、国際的にも独立が承認された。独立宣言以後、クロアティアを民族主義強硬路線で指導してきたトゥジマン大統領が1999年に死去した後の選挙で社会民主党など左派が躍進、国際協調路線への転換が図られ、国外に出たセルビア人難民の帰国受け入れも始まった。
 その後、政権は中道右派に替わったが、国際協調路線に変更はなく、2005年にはEU加盟交渉を開始し、2009年にはNATO加盟を実現させた。しかし、EU加盟は経済成長の停滞、社会整備の遅れなどからまだ実現しておらず、今後の課題として残されている。