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モンロー主義

1823年のモンロー教書に示された、孤立主義を基本とするアメリカの外交姿勢。

 1823年のモンロー大統領の「モンロー教書」に示された、アメリカ合衆国の外交理念。この考えはアメリカの外交政策の基本として、20世紀前半まで維持された。

モンロー主義の内容

 アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しないが、同時にアメリカ大陸全域に対するヨーロッパ諸国の干渉にも反対する、という思想。初代のワシントン大統領も辞任に際する演説でいかなる国とも「永久的同盟」は結ぶべきでないと戒め、ジェファソン大統領も「紛糾的同盟」は結ばないと表明していたので、国際的な中立政策は、当初からのもと言えるが、モンローはさらに南北アメリカ大陸(つまり西半球)に対するアメリカ合衆国の排他的な支配権を打ち立てようとした点で新たなものといえる。

モンロー主義の展開

 19世紀を通じてモンロー主義はアメリカの外交政策の基本である孤立主義とされるが、19世紀末に帝国主義列強としてアメリカ自身も次第に植民地獲得競争に巻き込まれると、セオドア=ローズヴェルト大統領は、モンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し「棍棒外交」を展開する。帝国主義諸国の対立はついに第一次世界大戦を引き起こすことになり、中立策を採っていたアメリカも結局参戦することとなった。ウィルソン大統領はアメリカを参戦に導くとともに、戦後の平和維持のための国際機関として国際連盟を提唱し、大戦後に世界最初の国際機関として発足した。
 こうしてアメリカは孤立主義を転換させたが、戦後は再びモンロー主義の原理に戻る勢力が強まり、アメリカ大統領ウィルソンが提案は議会で否定され、国際連盟への不参加となり、アメリカの孤立主義の根深さを世界に知らせることとなった。その後の戦間期、第二次大戦まで、アメリカの外交姿勢はモンロー主義および孤立主義と国際協調路線との間で揺れ動くこととなるが、世界恐慌への態度、第二次世界大戦で日本の真珠湾攻撃まで参戦しなかった姿勢などに孤立主義の原則が出ている。

モンロー主義の放棄

 その姿勢を完全に転換したのが第二次世界大戦に直面したF=ローズヴェルト政権であった。F=ローズヴェルトは大西洋憲章で、国際連合の設立を構想し、日本の真珠湾攻撃を受けて正式に参戦を表明、連合国を主導して戦争を勝利に導き、世界のリーダーとしてのアメリカの地位を築いた。国際連合において、アメリカは安全保障理事国となったことは、完全にモンロー主義を放棄したことを意味している。

アメリカ外交姿勢の転換

 東西冷戦期にはアメリカは西側陣営のリーダーとして、朝鮮戦争その他の地域紛争に積極的に派兵をくりかえしてきた。ベトナム戦争はその延長線上にあったが、そこでの挫折は、アメリカ経済をマヒに追い込み、その外交姿勢も大きく転換させることとなった。
 1960年代以降は、 → 孤立主義の項を参照。
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