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国際連合/UN

第二次世界大戦末期、枢軸国と戦う連合国の国際機構として、アメリカ大統領F=ルーズヴェルトによって構想され、1945年6月、サンフランシスコ会議で設立、10月に発足した。第1回総会は1946年1月、ロンドンで開催された。現在の本部はアメリカ、ニューヨークに置く。国際連盟に代わる新たな国際的平和維持のための唯一の国際機関として重要な役割を担っている。米ソ二大国が最初から加盟、また後に中華人民共和国が代表権を得て主要国による協調がはかられ、安全保障理事会による国際紛争の解決が目指されているが、近年は加盟国が増大する一方、国連を無視する大国主義の動きも顕著になっており、困難な課題に直面している。

 → 国際連合の加盟国  国連の変質  ロシアのウクライナ侵略と国連

国際連合の成立過程

構想 第二次世界大戦後の世界の枠組みをどのようにするかという連合国の戦後処理構想について、連合国側の二人の首脳、イギリス首相チャーチル・アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトによって、早くも1941年8月9日の大西洋上における会談において協議が始まった。その内容は大西洋憲章として発表された。それには領土の不拡大・不変更、すべての人民の主権と自治の実現、自由な貿易、労働条件や社会保障の改善、恐怖と欠乏からの解放、公海航行の自由とならんで、「一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの確立」と軍備削減を実現させることを提唱したものであった。
調整 ここでは具体的な国際連盟に替わる新たな国際組織が提案されたわけではないが、この合意にもとづいて1942年1月に連合国共同宣言が出され、1943年5月にソ連がコミンテルンを解散したことをうけ、1943年10月19日モスクワ宣言で徐々に具体化され、1943年11月、カイロ会談を開催して戦後構想についての協議を開始し、ついで開催されたテヘラン会談で新組織設立のための国際会議開催が決まった。
草案 1944年、連合国軍のノルマンディー上陸、サイパン島占領などにより戦局が連合国優位が明確になる中、1944年8月~10月に専門家によるダンバートン=オークス会議で国際連合憲章草案が作成された。

国際連合の発足

合意 ダンバートン=オークス会議では安全保障理事会の拒否権問題で米ソが対立したが1945年2月のヤルタ会談で解決し、ヤルタ体制と言われる戦後世界秩序を成立させた。提唱者のアメリカ大統領F=ローズヴェルト1945年4月に死去したが、その直後1945年4月25日に始まったサンフランシスコ会議(50カ国参加)で最終合意に達し、6月25日に採択され、最終日の1945年6月26日国際連合憲章が調印された。
発足 各国の批准が進み、同年8月15日に日本の無条件降伏で第二次世界大戦が終結した後の1945年10月24日、正式に発足することが決まった。
 第1回総会は、1946年1月10日、ロンドンで開催され、加盟51カ国が参加した。12日に安全保障理事会(安保理)の設置を決議、17日に国連の要ともいうべき安全保障委員会が開催された。しかし、この頃からすでにドイツ問題や東欧の自由選挙の問題、イランのソ連軍駐留問題などでアメリカとソ連の対立が顕著となり、冷戦への予徴となっていた。
POINT  世界大戦の戦後構想が1941年12月の太平洋戦争勃発前に始まっていること、またサンフランシスコ会議で国際連合の発足が決まったのが、日本の無条件降伏(8月14日受諾)よりも前であることに十分注意しよう。つまり、国際連合とは、発足においては、第二次世界大戦で枢軸国と戦った「連合国」が結成したものである。

the United Nations=「連合国」

 1945年6月に国際連合憲章が成立し、連合国各国の承認の終わった10月24日に正式に51ヵ国の原加盟国で発足した。国際連合(the United Nations 略称UN)という名称は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト大統領が提案し、1942年、26カ国が「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)に調印した時に初めて用いられた。サンフランシスコ会議では、出席者全員が、国連憲章調印の数週間前に死去したローズベルト大統領の業績を称え、この名前を採用することで合意した。つまり、その母体は戦前の国際連盟なのではなく、第二次世界大戦での「連合国」であったことということである。国連広報センター・ホームページ

国際連盟との違い

 国際連合は、大戦前の国際連盟と同様に、集団安全保障の理念のもとで、武力による紛争の解決をめざす国際平和機構として創設されたが、国際連盟を継承したものではなく(国際連盟は46年に解散)、第二次世界大戦での連合国が結集して組織したまったく新しい機関として発足した。国際連盟との違いは
・最初からアメリカとソ連の二大国が参加したこと
・紛争解決のために国連としての武力行使を容認していること
・総会の評決を多数決として、決定を出しやすくしたこと
の三点であり、より実効的な機関として、その役割ははるかに大きくなっている。
 また、国際平和の維持に特化した役割を持つ安全保障理事会が主要機関として設けられ、5大国一致の原則で解決にあたろうとしたことも、その後多くの問題を残すが、大きな特色である。その本部は国際連盟がジュネーヴであったのに対し、国際連合はニューヨークに置かれている。

主要機関

 全加盟国が1国1票で参加する総会、国際の平和と安全の維持にあたる安全保障理事会が最も重要であり、そ他に事務局(その長が事務総長)・経済社会理事会信託統治理事会国際司法裁判所が主要機関である。さらにその他に専門機関として、ユネスコ国際労働機関世界保健機関ユニセフがあり、多くの関連機関を有している。
 2001年には国際連合そのものにノーベル平和賞が贈られている。2020年のノーベル平和賞を受賞した国際連合世界食糧計画(WFP)は、国連の補助機関。1961年に国連総会と国際連合食糧農業機関(WAO)の決議によって創設され、飢餓の克服と紛争の解決にあたってきた。

日本と国連 「敵国条項」

 国際連合は第二次世界大戦での「連合国」を継承しており、いわゆる敵国条項を持っている。敵国とは、第二次世界大戦に「連合国」の敵であった国、つまり日本、ドイツなど枢軸国であった諸国(ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドを含む)のことであり、国連憲章第53条と第107条ではこれらの国に対しては加盟国は国連決議によらなくても行動できる、と規定している。これがいわゆる敵国条項であるが、日本(1956年に国際連合加盟)をはじめ、敵国とされるすべてが国連に加盟した現在では空文であるので、日本などが提案して1995年の国連総会で敵国条項を削除することが採決された。しかし、加盟国全部での批准が済んでいないため、この条文はまだ残っている。日本はいま、常任理事国入りをめざしているとされているが、その前に、かつての国際連盟を脱退した経緯、そして国連でも「敵国」とされている経緯をふまえておく必要がある。

なぜ「国際連合」と訳されたか?

 国際連合は英文では the United Nations であり、直訳すれば「連合国」である。そこには「国際」という意味はなく、前記のように第二次世界大戦での「連合国」(United nations)を継承したものである。中国でもただ単に「連合国」といっている。日本ではどのような経緯で「国際連合」と言われるようになったのかについてはよくわからないようだ。ただ、「国際」という文字がつくことによって、「日本を敵国としていた連合国の組織」というイメージは日本国民の中に無くなったことは確かだ。そこに巧まざる意図があったのかも知れない。<参考 河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 p.34~>

国連の重要な決議、宣言

  • 1946年1月10日 第1回総会 ロンドンで開催 51カ国参加。12日、安全保障理事会発足。総会決議第1号として国際原子力機関の設置と、核兵器および大量破壊が可能なすべての兵器の廃絶を目指す決議を可決。
  • 1947年 パレスチナ分割決議
  • 1948年 世界人権宣言ジェノサイド条約採択
  • 1950年 平和のための結集を採択
  • 1966年 国際人権規約の採択。その他にも、男女の平等、少数民族、児童、性的少数者などの権利保護のための条約が定められている。
  • 1968年6月 核拡散防止条約(NPT)を総会で採択、成立させ、1996年には包括的核実験禁止条約(CTBT)を採択した(こちらはアメリカが批准せず、発効していない)。
  • 1970年代から深刻となった環境問題に関しては、1972年 国連人間環境会議(ストックホルム)を開催、さらに、1992年に国連環境開発会議(リオデジャネイロ)を開催した。特に地球温暖化防止について、アジェンダ21にもとづき「気候変動枠組条約」が締結され、締約国会議(COP)の定期的な開催が決まった。
  • 1974年12月 侵略の定義に関する決議 侵略を「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」とした。これは国際連盟の「侵略の定義に関する条約」を継承する決議である。
  • 軍縮に関しては、国際連合軍縮特別総会を、1978年、82年、88年に開催している。
  • 1979年12月18日女性差別撤廃条約採択。
  • 1996年9月 総会で包括的核実験禁止条約(CTBT)を採択。
  • 2017年7月 核兵器禁止条約が国連総会で122ヵ国の賛成で成立した。正式には「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」といい、拡散防止とか実験の禁止といった制約を与えるのに留まらず、核兵器の全面的な禁止を定めた画期的な国際条約となった。アメリカ、中国を初めとする核兵器所有国と、日本のようにアメリカの核の傘に守られているという理由をつけた国々は不参加である。2021年1月に発効した。

国際連合の加盟国

国際連合は第二次世界大戦の連合国51カ国の加盟(原加盟国)によって発足した。その後、イタリア、日本、東西ドイツなど旧枢軸国=敗戦国も加盟し、さらに1960年代のアフリカ諸国の独立によって加盟国数が急増し、2011年に南スーダンが加盟し現在(2021)は193ヵ国に及んでいる。

ポーランドの加盟

 サンフランシスコ会議参加国が50ヵ国なのに、国際連合発足時の原加盟国が51ヵ国となったのは、サンフランシスコ会議開催時点(45年4月)ではポーランドが会議参加できなかったからであった。ポーランドはドイツ軍に占領されてから亡命政府をロンドンにつくり、その立場で連合国に加わり、国内軍が抵抗を続けていたが、ソ連軍はポーランドのドイツ軍を東から排除すると共に解放地に共産党系のルブリン国民解放委員会を組織させた。解放後の主導権をめぐってロンドン亡命政府とルブリン委員会がそれぞれ米英とソ連の後押しを受けて対立している状態であった。そのためサンフランシスコ会議にどちらの代表を送るかで米英とソ連が対立し、結局代表を参加させることができなかった。6月末にようやくポーランド国民一致臨時政府が成立したので、国際連合加盟ができることとなり、原加盟国に加わることとなった。

国際連合原加盟国 51カ国

アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、ベラルーシ、カナダ、チリ、中国、コロンビア、コスタリカ、キューバ、チェコスロバキア、デンマーク、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、エルサルバドル、エチオピア、フランス、ギリシャ、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、イラン、イラク、レバノン、リベリア、ルクセンブルグ、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポーランド、ロシア連邦、サウジアラビア、南アフリカ、シリア、トルコ、ウクライナ、英国、米国、ウルグアイ、ベネズエラ、ユーゴスラビア

異例な加盟国

 国際連合加盟国は、独立した主権国家であることが条件であるが、1945年4月のサンフランシスコ会議で加盟が認められた「原加盟国」の中には、例外的な国があった。
  • ウクライナベラルーシ(当時は白ロシア) この二国はいずれもソヴィエト社会主義共和国連邦の一部であり、厳密には独立した主権国家ではなかったが、スターリンはヤルタ会談で拒否権問題で妥協した見返りとして、この二国の加盟を要求した。ローズヴェルトは「ソ連に三票あたることになり、一国一票の原則に反する」と難色を示したが、チャーチルはイギリス連邦内の自治領インドを加盟させる事情があったため、スターリンに同調した。ローズヴェルトも「小さい問題」で妥協は必要と判断し、この二国の加盟を認めた。
  • インド、フィリピン、シリアは、厳密には国連発足時には独立していなかったが、戦後の独立が約束されていたので、先行して国際連合への加盟が認められた。

中国代表権問題

 国際連合に加盟している国の代表権が交替した、最も劇的で重大であったのが「中国代表権問題」であった。第二次世界大戦の「連合国」の主要メンバーであった「中国」は、「中華民国」(蔣介石の国民党政権)がその代表権を認められていた。国際連合の安全保障理事会常任理事国も当初は中華民国が務めていた。ところが、国連発足後の1946年6月、中華民国国民党政府と延安の中国共産党との国共内戦が勃発、次第に共産党勢力が優位となるとソ連は中国代表権を共産党政権に与えるべきであると主張、米英仏が拒否すると、安全保障理事会を棄権した。その後、内戦は共産党が勝利を収め、1949年10月に中華人民共和国が成立、国民党政権は台湾に逃れた。こうして中国大陸は共産党によって実効支配されることとなったが、1950年には朝鮮戦争で東西冷戦は火をふき、中国代表権問題の解決は困難となり、台湾の国民党政権が中国代表権を維持する事態が続いた。
1971年に代表権交替 1960年代末にベトナム戦争の打開を目指すアメリカと、ソ連との対立を中ソ論争から中ソ国境紛争にエスカレートさせていた中国の思惑が一致し、ニクソン大統領の下でキッシンジャーの秘密外交によって米中が急接近し、1971年、国連総会において中華人民共和国を中国唯一の合法的国家として承認してその中国代表権を認め、中華民国(台湾)を追放する決議が成立した。

加盟国の増加

 第二次世界大戦で連合国に敵対した枢軸国では、イタリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランドがいずれも1955年12月に国際連合加盟が認められ、日本の国際連合加盟は翌56年12月であった。ドイツは東西に分断され、互いに相手を国家として認めていなかったため、国連に加盟することはできなかった。
“アフリカの年” 1960年にはアフリカ諸国の独立が一斉に行われ、17ヵ国が一挙に国際連合に加盟(ここまでで96ヵ国)し、これらの諸国は総会においてはアメリカやソ連と同等の1票を議決権としてもっていたので、国連総会における第三世界の発言力が急激に増大することとなった。
分断国家も加盟 1970年代、東西冷戦の続く中、緊張緩和(デタント)の気運が高まり、73年に東西ドイツの国連同時加盟が実現した。同じく分断国家であったベトナムはベトナム戦争が終わった後の1977年に加盟、韓国と北朝鮮は1991年に同時加盟した。
冷戦解消後の加盟増 1990年代にはソ連邦の消滅やユーゴスラヴィアの解体などの社会主義圏の大変動の結果、東欧や中央アジアでの新たな独立国(バルト三国やウズベキスタン、キルギスタンなど)が一挙に加盟した。
 21世紀になって最初に加盟したのは2002年のスイスだった。永世中立を掲げて長く未加盟であったスイスが加盟したことは注目を集めた。最近では、2011年7月、南スーダン共和国が独立して加盟し、2021年現在の加盟国は193ヵ国となっている。
脱退と復帰 国際連盟では、日本・ドイツなどが脱退、ソ連が除名などのケースがあったが、国際連合では、1965年1月にインドネシアスカルノ大統領が、領土問題で対立するマレーシア連邦が安全保障理事会の非常任理事国に選出されたことに抗議して脱退したケースがあるだけである。このインドネシアもスカルノが失脚した後、1966年9月19日には復帰した。国際連合の脱退という行動は、現在では効果的な外交手段とは考えられなくなっているといえよう。

国連の本質の確立

 第二次世界大戦中の「連合国」が成立させた国際連合は、発足当時は51ヵ国に過ぎなかったが、その後日本など旧枢軸国も加わり、そして1960年に独立を遂げたアフリカ諸国が多数加わって加盟国が倍近い96ヵ国になったことによって、国連は戦勝国の連合という性格から大きく転換し、本質的に世界全体の平和と国際協力を維持、発展させる唯一の国際機構という本質が明確になった。

国連の変質

1990年代初めに米ソの冷戦が終結した後は、地域紛争が激しくなり、国連の平和維持活動が多発した。また加盟国が増加した反面、アメリカの国連離れ、単独行動の傾向が強まった。

 1960年代、旧植民地諸国の独立が相次ぎ、国際連合に加盟、構成国が急増した。一方、安保理中心の集団安全保障という国連当初の理念は、米ソの対立という現実の中で十分機能することができず、40年代から50年代にはインドシナ戦争、パレスチナ戦争、朝鮮戦争、50年代後半からは第2次~第4次の中東戦争、ベトナム戦争など激しい戦争が相次いだ。そのような中で、安全保障理事会は平和維持活動(PKO)を中心とするようになった。
 また加盟国が増加したことは、総会の中でアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の発言が強くなったことを意味し、相対的に安保理に対する総会の位置づけた強まっていった。また資源問題、人口問題などでのいわゆる南の諸国が、北の先進国に対する非難が強まってきた。
 このような安全保障の面での総会の地位向上などは、1970年代後半から、アメリカ合衆国の反国連意識を強めることとなり、国連批判を強め場合によっては脱退(アメリカ合衆国はILOからは1977~1980年、ユネスコから1984~2003年の間、脱退していた)するという姿勢を採るようになった。また先進国グループはG7などと言ってサミットを開催するなど、国連の枠外で共同行動をとる傾向が顕著となってきた。
 また安全保障理事会の常任理事国の構成や、権限や決定プロセスの見直し、国連の機構拡大に伴う財政支出に対する負担金の問題など、「国連改革」もテーマとなってきた。

国際連合の現状

 さまざまな問題を抱えながら第二次世界大戦後のさまざまな課題に取り組み、少なくとも冷戦時代を乗り切り、第三次世界大戦の危機を避けてくることができたことは事実として評価しなければならない。2001年には、国際連合に対し、ノーベル平和賞が与えられているのもそのような評価が世界世論であることを示している。原加盟国51カ国でスタートしたが、現在は193カ国(2021年現在)に加盟国が増加している。
 その結果、旧来の大国主導の運営はできなくなり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の動向が重要な意味を持つようになってきた。そのために国連とアメリカの世界戦略が必ずしも一致しないところから、最近のアメリカの国連離れ、国連批判の強まりという危険な兆候も見られる。国連の最も重要な任務である国際的安全保障においても、冷戦終結後の21世紀にはアメリカ合衆国の単独行動主義(ユニラテラリズム)の傾向が明確になり、かえって不安定材料となっている。
 また1975年から始まったいわゆる先進国首脳会談(サミット)も国連が多数の途上国に占められたことに対する先進国側の対応策と考えられ、国連中心主義が揺らいでいると言える。また安保理のあり方や財政負担、PKOのあり方など、さまざまな「国連改革」の必要が論じられるようになっている。国連の課題も平和維持だけでなく、人権、民族対立、人口、資源、環境と幅広くなっており、今後の世界の安定にとって重要な機関であることは確かである。

NewS 国連設立75周年 米中対立の深刻化

 国連は2020年、設立75周年を迎え、総会の一般討論演説が9月22日に開催された。本来は加盟193ヵ国代表団で議場が埋まるはずであったが、今年は新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、ソーシャルディスタンシングを守り入場は各国1名に限定、演説も事前録画のビデオを通じて、となった。アメリカのトランプ大統領の演説は新型コロナウィルスをめぐり「中国と、中国に事実上支配された世界保健機関(WTO)は、ヒトからヒトの感染の証拠がないと虚偽の事実を述べた」として国連は中国に行動の責任を取らせるべきだ、と異例の中国批判を行った。21日には国連総会で「国際的な協調、協力、連帯を強化する」ことで共同宣言が全会一致で採択されたが、文案の中に「共通の未来に向けたビジョン」という言葉は、アメリカや日本が中国の習近平国家主席が用いている「人類運命共同体」というフレーズを連想させるとして反対し、その部分は削除されたという。75周年を迎えた国連であるが、米中の対立、アメリカの国連離れ、安全保障理事会改革の停滞と拒否権発動の増加により機能停止など問題を抱え、その存在感が薄れている。<朝日新聞 2020/9/23 時々刻々>

ロシアのウクライナ侵略と国連

 2022年2月24日ロシア連邦プーチン大統領が、隣国ウクライナに対して、軍事侵攻を開始した。このロシアのウクライナ侵攻は世界に衝撃を与え、国際連合安全保障理事会が翌25日にただちに開催された。非難決議の審議が行われたが、当のロシアが拒否権を行使したため決議に至らなかった。
緊急特別総会で非難決議 27日には1950年の「平和のための結集」の決議に基づき、国際連合総会に対し、緊急特別会合の開催を要請、3月2日に総会本会議において「ロシア連邦によるウクライナへの侵略」が国連憲章2条4項にあたるとするロシア非難決議が採択された。 → 侵略の定義
 この国連総会の緊急特別会合は、1981年イスラエルによるゴラン高原占領問題以来、約40年ぶりの開催であり、1974年の国連総会での「侵略の定義」の決議にてらしても明確な侵略行為であったので、国連加盟国193ヵ国中、賛成141ヵ国、反対5ヵ国、棄権35ヵ国で非難決議が採択された。
  • ロシア非難決議に反対した5ヵ国 ベラルーシ、北朝鮮、エリトリア、ロシア、シリア
  • 棄権(35ヵ国)の中の主な国 中国、キューバ、インド、イラン、南アフリカ、(他に無投票12ヵ国)
常任理事国による侵略行為 問題が深刻なのは、侵略を行ったロシアが安保理の常任理事国であることだ。国連の集団安全保障の機能を守る、特別の地位を与えられた連合国の中の五大国である常任理事国の一つが、国際平和と秩序を守るという責務を放棄し、自国利益のために他国を侵略するという暴挙を行ったと言わなければならない。
 このことをうけ世界的にも、国連改革の最重要課題として、常任理事会のあり方を拒否権を含めて再検討すべきであるという声も起こっている。当面、拒否権を行使した常任理事国はその理由を総会で説明せよ、という意見はかなり強くなっている。現在はウクライナ問題の解決が最優先であるが、今後は国連改革が具体的な課題となるものと予想される。
国連に対する期待の減退 ロシアのウクライナ侵略は、アメリカ・NATOの対応次第では第三次世界大戦になる恐れが充分にある。またプーチン大統領は核兵器(戦術核)の仕様を脅しとして使っているが、現実のものともなりかねない。国連がこの戦争を予防することができなかったことから失望感が広がっており、もし第三次大戦や核戦争が起こってしまう事態となれば、国連の存在意義は決定的に失われてしまうであろう。ロシア側、あるいは必要あればNATOにも、もう一度、覚醒を促し、事態を収束させなければならない。

国連の意義の再確認

 国際連合は第二次世界大戦中に戦勝国の連合国として始まったとは言え、1960年代にアフリカなど多くの新しい独立国が加盟し、現在ではほぼ世界の主権国家を網羅して、世界の平和と気候変動など共通の課題にあたる、唯一の国際機関となっている。平和維持という課題では、国際連合は第一次世界大戦の反省に立って国際連盟が依拠した集団安全保障という理念を失うことなく、第二次世界大戦の多大な犠牲をはらって具体化するためにつられている。
 東西冷戦という対立の時代にも、軍事・経済ブロックが作られ、アメリカとソ連が非難の応酬をくりかえしながらも、国連という同じテーブルの場で議論を交わしてきたことに意義があるのであり、その点がアメリカが参加せず、ソ連が当初は排除され、日本、ドイツが脱退してしまって機能不全に陥った国際連盟の歴史を反省して作り上げた、国際連合の最も素晴らしい点であることは間違いない。
 冷戦後には、アメリカが単独行動主義を採って国連軽視の行動を強めたため、国連は大きく揺さぶられたが、それでもなお唯一の世界平和維持・協力機構として存続している。国連改革が時代の変化に伴って必要であるのは当然であるが、短絡的に国連不信論、あるいは無用論に陥るべきではなく、また絶望すべきでもない。このような国連を、ロシアの愚行によって台無しにしてしまうことはあってはならないし、あるいは万が一、ロシアが国連という場から離れるようなことがあってもならない。取り返しのつかない歴史の逆行となってしまうことは避けなければならない。<2022/5/30記>