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国際連合/UN

1945年6月、サンフランシスコ会議で設立され、10月に発足した国際機構。国際連盟に変わる新たな国際的平和維持のための唯一の国際機関として重要な役割を担っている。

国際連合の成立過程

 第二次世界大戦後の世界の枠組みをどのようにするかについて、連合国側の二人の首脳、イギリス首相チャーチル・アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトによって、早くも1941年8月の大西洋上における会談において協議が始まった。その内容は大西洋憲章として発表された。それには領土の不拡大・不変更、すべての人民の主権と自治の実現、自由な貿易、労働条件や社会保障の改善、恐怖と欠乏からの解放、公海航行の自由とならんで、「一層広範かつ恒久的な全般的安全保障システムの確立」と軍備削減を実現させることを提唱したものであった。ここでは具体的な国際連盟に替わる新たな国際組織が提案されたわけではないが、この合意にもとづいて1942年1月に出された連合国共同宣言、さらに1943年10月のモスクワ宣言で徐々に具体化され、同年11月のテヘラン会談で新組織設立のための国際会議開催が決まり、44年8月~10月に専門家によるダンバートン=オークス会議で国際連合憲章草案が作成された。ここでは安全保障理事会の拒否権問題で米ソが対立したが、45年2月のヤルタ会談で解決、同年4月に始まったサンフランシスコ会議で、6月に国際連合憲章が採択されて成立した。各国の批准によって1945年10月24日、正式に発足した。
※戦後構想が1941年12月の太平洋戦争勃発前に始まっていること、またサンフランシスコ会議で国際連合の発足が決まったのが、日本の無条件降伏(8月14日受諾)よりも前であることに十分注意しよう。

国際連合の発足

 1945年6月に国際連合憲章が成立し、連合国各国の承認の終わった10月24日に正式に51ヵ国の原加盟国で発足した。国際連合(the United Nations 略称UN)という名称は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト大統領が提案し、1942年、26カ国が「連合国共同宣言」(Declaration by United Nations)に調印した時に初めて用いられた。サンフランシスコ会議では、出席者全員が、国連憲章調印の数週間前に死去したローズベルト大統領の業績を称え、この名前を採用することで合意した。つまり、その母体は戦前の国際連盟なのではなく、第二次世界大戦での「連合国」であったことということである。国連広報センター・ホームページより>

国際連盟との違い

 国際連合は、大戦前の国際連盟と同様に、集団安全保障の理念のもとで、武力による紛争の解決をめざす国際平和機構として創設されたが、国際連盟を継承したものではなく(国際連盟は46年に解散)、第二次世界大戦での連合国が結集して組織したまったく新しい機関として発足した。国際連盟との違いは
・最初からアメリカとソ連の二大国が参加したこと、
・紛争解決のために国連としての武力行使を容認していること
・総会の評決を多数決として、決定を出しやすくしたこと
の三点であり、より実効的な機関として、その約役割ははるかに大きくなっている。
 また、国際平和の維持に特化した役割を持つ安全保障理事会が主要機関として設けられ、5大国一致の原則で解決にあたろうとしたことも、その後多くの問題を残すが、大きな特色である。その本部は国際連盟がジュネーブであったのに対し、国際連合はニューヨークに置かれている。

主要機関

 全加盟国が1国1票で参加する総会、国際の平和と安全の維持にあたる安全保障理事会が最も重要であり、そ他に事務局(その長が事務総長)・経済社会理事会信託統治理事会国際司法裁判所が主要機関である。さらにその他に専門機関として、ユネスコ国際労働機関世界保健機関ユニセフがあり、多くの関連機関を有している。

補足

 日本と国連 国際連合は「連合国」を継承しており、いわゆる敵国条項を持っている。敵国とは、第二次世界大戦に「連合国」の敵であった国、つまり日本、ドイツなど枢軸国であった諸国(ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド)のことであり、国連憲章第53条と第107条ではこれらの国に対しては加盟国は国連決議によらなくても行動できる、と規定している。これがいわゆる敵国条項であるが、日本(1956年加盟)をはじめ、敵国とされるすべてが国連に加盟した現在では空文であるので、日本などが提案して1995年の国連総会で敵国条項を削除することが採決された。しかし、加盟国全部での批准が済んでいないため、この条文はまだ残っている。日本はいま、常任理事国入りをめざしているとされているが、その前に、かつて国際連盟を脱退した経緯、そして国連でも「敵国」とされていた経緯をふまえておく必要がある。  → 日本の国連加盟

Episode なぜ「国際連合」と訳されたか?

 国際連合は英文では the United Nations であり、直訳すれば「連合国」である。そこには「国際」という意味はなく、第二次世界大戦での「連合国」(United nations)を継承したものである。中国でもただ単に「連合国」といっている。日本ではどのような経緯で「国際連合」と言われるようになったのかについてはよくわからないようだ。ただ、「国際」という文字がつくことによって、「日本を敵国としていた連合国の組織」というイメージは日本国民の中に無くなったことは確かだ。そこに巧まざる意図があったのかも知れない。<参考 河辺一郎『国連と日本』1994 岩波新書 p.34~>

国際連合の加盟国

国際連合は第二次世界大戦の連合国51カ国の加盟(原加盟国)によって発足した。その後、イタリア、日本、東西ドイツなど旧枢軸国=敗戦国も加盟し、さらに1960年代のアフリカ諸国の独立によって加盟国数が急増し、2014年現在は193ヵ国に及んでいる。

ポーランドの加盟

 サンフランシスコ会議参加国が50ヵ国なのに、国際連合発足時の原加盟国が51ヵ国となったのは、サンフランシスコ会議開催時点(45年4月)ではポーランドが会議参加できなかったからであった。ポーランドはドイツ軍に占領されてから亡命政府をロンドンにつくり、その立場で連合国に加わり、国内軍が抵抗を続けていたが、ソ連軍はポーランドのドイツ軍を東から排除すると共に解放地に共産党系のルブリン国民解放委員会を組織させた。解放後の主導権をめぐってロンドン亡命政府とルブリン委員会がそれぞれ米英とソ連の後押しを受けて対立している状態であった。そのためサンフランシスコ会議にどちらの代表を送るかで米英とソ連が対立し、結局代表を参加させることができなかった。6月末にようやくポーランド国民一致臨時政府が成立したので、国際連合加盟ができることとなり、原加盟国に加わることとなった。

異例な加盟国

 国際連合加盟国は、独立した主権国家であることが条件であるが、1945年4月のサンフランシスコ会議で加盟が認められた「原加盟国」の中には、例外的な国があった。
ウクライナベラルーシ(当時は白ロシア) この二国はいずれもソヴィエト社会主義共和国連邦の一部であり、厳密には独立した主権国家ではなかったが、スターリンはヤルタ会談で拒否権問題で妥協した見返りとして、この二国の加盟を要求した。ローズヴェルトは「ソ連に三票あたることになり、一国一票の原則に反する」と難色を示したが、チャーチルはイギリス連邦内の自治領インドを加盟させる事情があったため、スターリンに同調した。ローズヴェルトも「小さい問題」で妥協は必要と判断し、この二国の加盟を認めた。
・インド、フィリピン、シリアは、厳密には国連発足時には独立していなかったが、戦後の独立が約束されていたので、先行して国際連合への加盟が認められた。

中国代表権問題

 国際連合に加盟している国の代表権が交替した、最も劇的で重大であったのが「中国代表権問題」であった。第二次世界大戦の「連合国」の主要メンバーであった「中国」は、「中華民国」(蒋介石の国民党政権)がその代表権を認められていた。国際連合の安全保障理事会常任理事国も当初は中華民国が努めていた。ところが、国連発足後の1946年6月、中華民国国民党政府と延安の中国共産党との国共内戦が勃発、次第に共産党勢力が優位となるとソ連は中国代表権を共産党政権に与えるべきであると主張、米英仏が拒否すると、安全保障理事会を棄権した。その後、内戦は共産党が勝利を収め、1949年10月に中華人民共和国が成立、国民党政権は台湾に逃れた。こうして中国大陸は共産党によって実効支配されることとなったが、すぐに起こった朝鮮戦争で東西冷戦は火をふき、中国代表権問題の解決は困難となり、台湾の国民党政権が中国代表権を維持する事態が続いた。
1971年に代表権交替 1960年代末にベトナム戦争の打開を目指すアメリカと、中ソ論争から中ソ国境紛争にエスカレートさせていた中国の思惑が一致し、ニクソン大統領の下でキッシンジャーの秘密外交によって米中が急接近し、1971年、国連総会において中華人民共和国を中国唯一の合法的国家として承認してその中国代表権を認め、中華民国(台湾)を追放する決議が成立した。

加盟国の増加

 第二次世界大戦で連合国に敵対した枢軸国では、イタリア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・フィンランドがいずれも1955年12月に国際連合加盟が認められ、日本の国際連合加盟は翌56年12月であった。ドイツは東西に分断され、互いに相手を国家として認めていなかったため、国連に加盟することはできなかった。
 1960年にはアフリカ諸国の独立が一斉に行われ、17ヵ国が一挙に国際連合に加盟(ここまでで96ヵ国)し、これらの諸国は総会においてはアメリカやソ連と同等の1票を議決権としてもっていたので、国連総会における第三世界の発言力が急激に増大することとなった。
 1970年代、東西冷戦の続く中、緊張緩和(デタント)の気運が高まり、73年に東西ドイツの国連同時加盟が実現した。同じく分断国家であったベトナムはベトナム戦争が終わった後の1977年に加盟、韓国と北朝鮮は1991年に同時加盟した。
 1990年代にはソ連邦の消滅やユーゴスラヴィアの解体などの社会主義圏の大変動の結果、東欧や中央アジアでの新たな独立国(バルト三国やウズベキスタン、キルギスタンなど)が一挙に加盟した。
 最近では、2011年7月、南スーダン共和国が独立して加盟し、2014年8月現在の加盟国は193ヵ国となっている。

国連の変質

1990年代初めに米ソの冷戦が終結した後は、地域紛争が激しくなり、国連の平和維持活動が多発した。また加盟国が増加した反面、アメリカの国連離れ、単独行動の傾向が強まった。

 1960年代、旧植民地諸国の独立が相次ぎ、国際連合に加盟、構成国が急増した。一方、安保理中心の集団安全保障という国連当初の理念は、米ソの対立という現実の中で十分機能することができず、40年代から50年代にはインドシナ戦争、パレスチナ戦争、朝鮮戦争、50年代後半からは第2次~第4次の中東戦争、ベトナム戦争など激しい戦争が相次いだ。そのような中で、安全保障理事会は平和維持活動(PKO)を中心とするようになった。
 また加盟国が増加したことは、総会の中でアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の発言が強くなったことを意味し、相対的に安保理に対する総会の位置づけた強まっていった。また資源問題、人口問題などでのいわゆる南の諸国が、北の先進国に対する非難が強まってきた。
 このような安全保障の面での総会の地位向上などは、1970年代後半から、アメリカ合衆国の反国連意識を強めることとなり、国連批判を強め場合によっては脱退(アメリカ合衆国はILOからは1977~1980年、ユネスコから1984~2003年の間、脱退していた)し、単独行動主義(ユニラテラリズム)の傾向が明確になってきた。また先進国グループはサミットの開催など、国連の枠外で共同行動をとる傾向が顕著となってきた。
 また安全保障理事会の常任理事国の構成や、権限や決定プロセスの見直し、国連の機構拡大に伴う財政支出に対する負担金の問題など、「国連改革」もテーマとなってきた。

国際連合の現状

 さまざまな問題を抱えながら第二次世界大戦後の様々な課題に取り組み、少なくとも冷戦時代を乗り切り、第3次大戦の危機を避けてくることができたことは評価しなければならない。2001年には、国際連合に対し、ノーベル平和賞が与えられているのもそのような評価が世界世論であることを示している。原加盟国51カ国でスタートしたが、現在は192カ国(2006年現在)に加盟国が増加している。
 その結果、旧来の大国主導の運営はできなくなり、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの小国群の動向が重要な意味を持つようになってきた。そのために国連とアメリカの世界戦略が必ずしも一致しないところから、最近のアメリカの国連離れ、国連批判の強まりという危険な兆候も見られる。
 また1975年から始まったいわゆる先進国首脳会談(サミット)も国連が多数の途上国に占められたことに対する先進国側の対応策と考えられ、国連中心主義が揺らいでいると言える。また安保理のあり方や財政負担、PKOのあり方など、さまざまな「国連改革」の必要が論じられるようになっている。国連の課題も平和維持だけでなく、人権、民族対立、人口、資源、環境と幅広くなっており、今後の世界の安定にとって重要な機関であることは確かである。
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ノートの参照
第16章1節 ア.戦後の国際政治・経済秩序
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河辺一郎
『国連と日本』
1994 岩波新書