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ハーグ万国平和会議/ハーグ国際平和会議

1899、1907年の2回、オランダのハーグで開催された国際平和会議。帝国主義諸国の武力衝突を回避するための協力態勢樹立を目指した。恒久的な平和維持には失敗したが、この会議によって、ハーグ陸戦条約、毒ガス禁止など、一定の戦争を制限する国際法規が生まれ、現在まで効力を維持している。

 いずれもオランダのハーグで開催された、帝国主義諸国による国際平和維持の試みであったが、結果的に成果を上げることは出来なかった。第1回を提唱したのはロシアのニコライ2世であるが、その理由は19世紀末に高まってきた列強対立と国際政治の不安定化にともなう軍備拡張が各国の財政に大きな負担をもたらしていたところにある。<岡義武『国際政治史』1955 再版 2009 岩波現代文庫 p.144>
 帝国主義諸国にとっても戦争は大きな犠牲を伴うことであったので、回避の方策をとろうという動きが起こっても不思議ではない。結局、各国の利害の対立は、世界戦争を回避できなかったが、そのような「現実」だけでなく、一方で世界平和の確立という「理想」の追求が、19世紀の最末年に試みられたことは忘れてはならない。しかし、17世紀のグロティウスに始まる、戦争を抑制する一定の国際法規を作るという努力を継承し、実際の戦闘行為に対する人道的な立場からの制約がかけられたことと、国際紛争の仲裁に関するルール造りの必要が確認されたことは大きな前進と評価できる。

1899年 第1回ハーグ会議

 1899年の第1回会議では28カ国が参加し、オランダのハーグで開催された。軍備制限に関する国際的協定の策定について話し合ったが、軍備制限は「人類の物質的および道徳的幸福のために切に望ましい」ことを決議し、軍備制限協定の締結を「要請する」にとどまった。しかし、戦争に関する国際法規としてハーグ陸戦条約の採決や、毒ガスの禁止などの見るべき成果も上げている。<以下、藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.20-24 による要約>
ハーグ陸戦条約 戦時国際法として、交戦者の資格、捕虜の取り扱い、傷病者の取り扱い、害敵手段や方法、軍資、降伏規定、休戦、占領法規に関する規定が定められた。捕虜の規定では、その虐待を禁止し、後の第2次世界大戦での日本軍の捕虜虐待を告発する根拠となった。第2回ハーグ万国平和会議で補足された規定も含め、次のような要点である。
・交戦者の資格には正規軍だけではなく、一定の条件で民兵や義勇兵にも交戦資格が与えられた。
・害敵手段・方法では施毒兵器や不必要な苦痛を与える兵器の使用禁止、無防備都市に対する攻撃の禁止、砲撃の制限、略奪の禁止などがが定められた。
・まだ航空機が未発達だったので、空爆に関する規定は含まれていなかった。またハーグ陸戦条約は、この条約の非締結国が交戦国中に一ヵ国でもくわわれば、その時から締約国間にもこの条約が適用されないという、いわば総加入条項があった。
 ハーグ陸戦条約は、新しい内容というより従来から見とれられていた慣習を法典化したとみなされ、その後に二度の世界大戦においても、総加入条項があるにもかかわらず、非締約国をも含むすべての交戦国に適用されるべきものと考えられた。
毒ガスの禁止宣言 ハーグ平和会議は毒ガス(窒息性ガスまたは有毒性ガスの散布を唯一の目的とする投射物)の使用を禁止する宣言を採択した。また「ダムダム弾」の使用も禁止された。ダムダム弾とはもとは猛獣狩りに使われたもので、人体にあたるとはじけてなかの鉛が飛びだし、不必要に大きな苦痛を与えるもので、1890年代にインドでイギリス軍が山岳民族と戦うために開発、カルカッタ近郊のダムダムで作られたのでその名がある。 また、残虐な武器としてなどは使用してはいけないとされた。
国際仲裁裁判所  第1回会議において、参加諸国は国際紛争の平和的処理に関する条約を締結し、ハーグに常設の国際仲裁裁判所を設立することで合意した。これは世界最初の国際的な司法機関であったが、具体的な機能を発揮することはなかった。

1907年 第2回ハーグ会議

 1907年の第2回は同じくハーグで47カ国が参加して開催された。日露戦争の調停を成功させたアメリカのセオドア=ローズヴェルトが活躍して、会議を主導したが、各国の軍縮についての協定は合意に至らず、実質的な成果を上げ得ずに終わった。
開戦に関する条約 戦争法規の適用される国際法上の戦争として認められるためには、何らかの戦意の表明の仕方のルールが必要とされた。当時はまだ明確な規定はなく、日清戦争においても、日露戦争においても、双方の明示的な宣言なしに海戦が開始されていた。その反省から1906年の国際法学会は宣戦または最後通牒なしに戦を宇を開始しないという原則を採択し、それを受けて1907年の第2回ハーグ万国平和会で「開戦に関する条約」が成立した。これによって締約国は開戦に当たり、「理由を付したる開戦宣言または条件付き開戦宣言を含む最後通牒」による事前通告なしに戦争を開始しないことを承認した。ただし、これも総加入方式であったので、非加盟国との戦争の場合は開戦宣言は必要とされなかった。<以上、藤田久一 同上書 p.22-24>
ハーグで成立した条約の問題点 ハーグ陸戦条約のみは、交戦当事国がこの条項に違反して損害を与えた場合には、賠償責任が生じることを規定していた。しかし、そこでの国家責任は民事責任に限られており、刑事責任ないしは国家犯罪と言った観念はまったくなかった。戦争犯罪の明確化は、第一次世界大戦までは各国の国内法規で処罰されるに留まっていた。<以上、藤田久一 同上書 p.28>
ハーグ密使事件 1907年、第2回のハーグ万国平和会議には、当時日本によって保護国化されていた朝鮮(当時は大韓帝国と称した)の皇帝高宗が密使を派遣し、日本による韓国植民地化の不当性を訴えるハーグ密使事件が起こった。しかし、列強は日本の朝鮮に対する優越権を認めていたので、韓国の訴えは取り上げられなかった。
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ノートの参照
第14章1節 キ.第2インターナショナル
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藤田久一
『戦争犯罪とは何か』
1995 岩波新書