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日本人移民排斥運動

日露戦争後、アメリカにおける日本人移民に対する排斥機運が強まり、しばしば問題が起きた。

 アメリカは1899年に国務長官ヘイが門戸開放宣言を出し、それが中国大陸に対する国策の基本となっていた。そして義和団事変での出兵を機に、中国、特に東北部(満州)への侵出を謀るようになった。満州をめぐって日本とロシアが対立し日露戦争になると、T=ローズヴェルト大統領はそのいずれかが決定的な勝利を締めて、アメリカが追い出されてしまうことを恐れて、両国の仲介に乗り出した。

日露戦争後の日米関係悪化

  • 満州問題をめぐる対立 日露戦争で日本が南満州鉄道敷設権を獲得したことに対し、アメリカは門戸開放の遵守を迫って抗議した。日本はこのようなアメリカの動きに対し、急速にロシアとの提携を強め、日露協約で北満州をロシア、南満州を日本がそれぞれ勢力圏として分け合うことに合意した。アメリカは両国による満州分割に反発し、満州の鉄道をすべて国際管理に置くことなどを提案した。
  • 海軍増強問題 1904年のパナマ運河開通、ハワイでの軍港の整備など、太平洋への海軍進出を図るアメリカにとって、日本の海軍力は大きな脅威であった。両国は日露戦争後、積極的な建艦競争にのりだし、互いに相手を仮想敵国視するようになった。両国でさかんに「もし日米、戦わば」という未来戦が人気を博した。
  • 日本人移民問題 もう一つの日米間の摩擦の要因となったのが、日本人移民問題であった。明治元年から日本人のハワイ移民が始まり、さらに20世紀に入るとアメリカ西海岸に激増した。白人(主にアイルランド系)労働者は、人種的偏見と共に安価な労働力によって仕事が奪われるという経済的観点から、激しく日本人移民を排斥するようになった。それにはドイツのウィルヘルム2世が唱えた黄禍論の影響もあった。

日本人移民排斥

 1906年、サンフランシスコで、公立学校への日本人学童の入学が拒否され、他のアジア人と同じ学校に数学スベシという市条例が制定された。これに対して日本国内でも激しい反発が起こり、アメリカに対する非難が強まった。ようやくローズヴェルト大統領の市当局への説得により収束した。1908年、高平・ルート協定(駐米公使高平小五郎と国務大臣ルート間の紳士協定)で日本はアメリカへの移民を自主規制するなどの妥協したが、なおも問題は継続した。
 その後、カリフォルニアでは日系人の土地所有、賃貸が増加し、1913年にはカリフォルニア州議会が排日土地法を制定し、日系1世は土地所有が出来なくなった。このときも日本国内で激しい反米運動が起き、日米戦うべしと言った演説も聞かれた。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.40>

移民法の成立

 さらに第1次世界大戦後は、移民制限の動きが強まり、1924年の「移民法」で日本からの移民は全面的に禁止されることとなる。また、世界的な動きの中でも、ドイツのヴィルヘルム2世が「黄禍論」を唱え、日本人に対する警戒を呼びかけている。 → 移民(全般) 移民(アメリカ) 帝国主義時代の移民問題
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ノートの参照
第14章3節 イ.日露対立と列強
書籍案内

細谷千博
『日本外交の軌跡』
1993 NHKブックス