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白豪主義

19世紀末~20世紀のオーストラリアにおける非白人入植を制限する政策。現在は採用されていない。

 オーストラリアにおける、中国人などのアジア系の移民を排斥、制限し、白人主体のオーストラリアを建設しようとする政策。かつてはオーストラリアを漢字では「濠州」と書いていたので白濠主義と表記されていたが、現在では「豪州」、「白豪主義」が一般的になっている。白豪主義と言われるオーストラリアの移民制限政策は、1880年代に始まり、1979年まで続いた。

オーストラリアの移民制限政策

 1851年2月、オーストラリアのニュー・サウスウェールズ州のバサーストで、ついで8月にはヴィクトリア州バララットでも金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まった。シドニーやメルボルンからだけではなく、世界中から一攫千金を求める人々が殺到した。その中で金鉱の労働力として急増したのが中国系移民、いわゆる華僑であった。増加する中国系移民によって仕事を奪われた白人が暴動を起こすなど、反中国人感情が強まり、1880年代にはオーストラリアの自治要求と結びついた中国人排斥運動が強まった。
 同じころアメリカ合衆国の移民でも中国人移民に対する排斥運動が興り、1882年に、アメリカ合衆国で最初の移民制限法である中国人労働者移民排斥法が成立したことの影響を受け、1901年、イギリス本国から自治が認められてオーストラリア連邦が成立したがその議会が最初に制定したのが「移民制限法」だった。この白豪主義の対象は次第にアジア系移民全体にひろげられたため、第二次世界大戦後は国際的な非難を受けるようになり、1973年に移民制限法を撤廃して積極的な受け入れ方針に転じた。

Episode 白豪主義の巧妙な移民制限

 「移民制限法」には「好ましからざる移民は認めない」とあるだけで、具体的にアジア系移民の入国を拒否するとは書いていなかったが、巧妙に移民を制限出来るようになっていた。それは入国を希望する外国人に「ヨーロッパ語の50語の書き取り」という「言語テスト」に合格することを義務づけたことである。ヨーロッパからの移民は簡単に入国できたが、アジアからの移民はほとんどが合格出来なかったわけである。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.130>
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遠藤雅子
『オーストラリア物語』
2000 平凡社新書