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国民党

1912年、袁世凱の独裁に反対して孫文、宋教仁らが結成した政党。袁世凱の専制政治復活に反対する第二革命をおこしたが、弾圧により宋教仁も暗殺され壊滅する。

 1912年8月、中国同盟会など4つの政治結社が合流した政党。 中華民国政府で1912年3月10日に孫文に代わって臨時大総統となった袁世凱が、首都の南京には来ず、北京に居座って独裁権力を握ったことに反対する第二革命が起こると、選挙で議会の多数を占めることを目指す公開政党として組織された。孫文が理事長に選出されたが、実権は議会制民主主義の実現を目指していた宋教仁らがにぎっていた。孫文は、中国では議会制民主主義は困難と考え、有能な人物(つまり孫文自身)による専制による革命を主張していたので、宋教仁に対しては批判的であった。
注意 中国国民党とは別 1919年に結成された中国国民党も国民党という場合があるが、1912年結成のこの国民党とは直接つながりはない、別組織であるので、混同しないようにしよう。

宋教仁暗殺され解散

 1913年に臨時約法にもとづく選挙が実施されると、国民党は大勝したが、危機感を持った袁世凱は1913年3月20日、宋教仁を上海で暗殺、国民党も抵抗できず解散に追いこまれた。孫文は、1914年に残存勢力を集めて中華革命党を東京で結成、再び秘密結社方式に戻った。<横山宏章『中華民国』中公新書 1997 p.32~36>
 孫文は暗殺の危険を避けて東京に亡命、翌1914年に再び秘密結社として中華革命党を組織した。その後、1919年の五・四運動を機に中国国民党に改組され、公開政党に戻る。  
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書籍案内

横山宏章
『中華民国』
1997 中公新書