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中国同盟会

1905年、東京で孫文らが結成した中国革命をめざす組織で中国最初の本格的政党。

1905年、東京で孫文が中心となって、興中会(広東中心、指導者孫文)・光復会(章炳麟ら浙江省出身者が中心)・華興会(黄興ら湖南出身の在日留学生が結成)などを結集して組織した反清朝を掲げる中国最初の政党。孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となった。

組織名と理念、綱領

 正式には中国革命同盟会と称したが、「革命」という語が人々に恐怖心をあたえることを警戒して、対外的には単に中国同盟会と称した。またその理念は孫文が提唱した三民主義にかかげ、綱領として「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」の四大綱領を掲げ、機関誌『民報』を発行した。

結成と運動

 1905年、ヨーロッパでの中国人留学生への運動を終えて日本に来た孫文は、同じく亡命中の華興会の黄興・宋教仁らと会談、革命勢力の大同団結を目指すことで一致した。7月30日、東京赤坂の黒竜会(大アジア主義を唱える民族主義団体)で約70名の中国人留学生に宮崎滔天や内田良平なども加わり、同盟会の準備会を開いた。清朝の打倒、共和政を目指すことでは直ちに一致したが、「平均地権」という孫文の提案は社会改革に及ぶ点なので同意を得るために時間がかかった。ついで8月20日、同じく赤坂の代議士坂本金弥宅で300名の代議員が集まり、正式な結成大会を開いた。孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、各省ごとの代表を置いた。翌年、中国同盟会は革命方略を制定、「国民軍政府宣言」を出すと共に、共和国を実現するまでを「軍法の治・約法の治・憲法の治」の三段階に分ける戦略を立てた。その方略に基づき、革命軍を組織し、辛亥革命までの間に、10回の挙兵を行った。その間、加盟は約1万に増大した。

地域的対立の問題

 中国同盟会は中国最初の革命勢力を結集した政党であったが、会の母胎となった三組織の間の地域的対立感情も抱えていた。興中会系は孫文の出身地である広東省出身者が多く、それに対して華興会系は湖南省、光復会系は浙江省がそれぞれの基盤であった。

清朝の弾圧策と日本政府の態度

 清朝は増大する革命運動を警戒して直ちに革命取締法を制定、さらにその策動の震源地である東京の留学生に対する弾圧を強め、日本政府にも協力を要請した。日本政府の文部省は清国留学生取締規則を設け、中国人学生が日本の公私立学校に入学するためには清国公使館の紹介状が必要とすると改めた。このため留学生の多くは入学できなくなり、反対運動が激しくなって同名会員で民報の論者の一人であった陳天華は大森海岸で抗議の自殺をした。

孫文と章炳麟らの対立

 しかし、日本政府(外務大臣小村寿太郎)は態度を変えず、やむなく多くの留学生が日本を離れざるをえなくなった。孫文にも日本退去の圧力が加わり、やむなく1907年、ハノイに退去した。清国政府はベトナムにも圧力をかけたため孫文はシンガポールに移り、さらにイギリスの圧力でそこも退去してヨーロッパに移った。この時日本に残った章炳麟・宋教仁らは孫文が支援者を通じて日本政府から資金を得たと疑い、孫文は買収されたと非難するようになり、同盟会内部での対立が生じた。こうして清国政府の弾圧と内部対立で混乱し、本国での挙兵もいずれも失敗し、運動は停滞した。

辛亥革命と国民党への改組

 しかし、清朝政府の自壊作用が進み、1911年、鉄道国有化政策が破綻して四川暴動が起きると、新軍の武昌蜂起から辛亥革命が勃発した。1912年正月、孫文が臨時大総統となったが、北京の軍閥袁世凱と妥協し、その地位を譲った。袁世凱大総統のもとで議会開設が予定されたので、袁世凱の独裁に対抗するため、1912年に中国同盟会を幅広い国民政党として国民党に改組した。
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ノートの参照
第14章3節 エ.辛亥革命