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奉天派

東三省を基盤とした張作霖を首領とする軍閥。安徽派・直隷派と激しく争った。張作霖は一時北京の政権を奪ったが、蔣介石の北伐によって追われ、奉天に戻る途中、1928年に日本軍によって殺害された。息子の張学良が軍閥を継承したが、国民政府に帰順し、その軍は東北軍に組み込まれた。

 中華民国の建国期に大きな存在となった軍閥の一つで、東三省を基盤とした張作霖が頭目であった。安徽派・直隷派などが北洋軍閥の流れをくむのに対して、奉天派は馬賊から頭角を現した張作霖が一代で築いた私兵集団をもとにしている。北京から離れた東北地方にあったが、しばしば関内に侵攻し、安徽派直隷派を脅かし、キャスティングボートを握っていた。はじめ直隷派と結んで安徽派段祺瑞政権を北京から追い(安直戦争)、ついで直隷派と戦い(第1次奉直戦争)、いったん敗れたが、1924年には再び北京を目指して直隷派を破り(第2次奉直戦争)、張作霖が華北を抑えることになった。
 しかし、ほどなく南京国民政府の蔣介石の北伐が始まり、蔣介石軍が北京に迫ったので、1928年に北京を放棄した。1928年6月、奉天に帰る途中に、日本の関東軍によって張作霖爆殺事件が引き起こされた。関東軍は奉天派を混乱させて東三省への影響力を強めることを狙ったが、張作霖の子の張学良は同1928年12月、国民政府に帰順し、その軍も国民政府軍に組み込まれて東北軍となり、軍閥は消滅し、かえって中国軍の強化をもたらすことになった。
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