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張作霖爆殺事件/満州某重大事件

1928年6月、満州軍閥の張作霖が北京から奉天に向かう途中、鉄道が爆破されて殺害された。当時日本では満州某重大事件と言われ真相は明らかにされなかったが、戦後になって関東軍の謀略であったことが明らかになった。

 1928年6月4日北伐軍に追われ北京を撤退し奉天(現在の瀋陽)に戻る途中の張作霖をのせた京奉線上の列車が、奉天手前の満鉄線と高架で交差するところを走行中、爆破され殺された。当時の日本では事件の詳細は報道されず「満州某重大事件」または「奉天事件」といわれただけでその真相を国民が知ることはなかった。その事実が判明したのは第二次世界大戦が終わった後のことであった。

関東軍の謀略

 戦後の東京裁判などの過程で、この事件は日本の関東軍(南満州鉄道の保護などを目的に設置された日本の軍隊)の河本大作参謀が中心になって実行された犯行であったことが明らかになった。当時日本の関東軍は、満州で最も有力であった奉天派軍閥・張作霖を利用して満州における支配権を強めようと画策していたが、張作霖は日本に非協力的であり、役に立たないと判断し、その張作霖が蔣介石に北京を追われ、満州に戻ってくる機会に一挙に葬って満州の実権を握ろうとしたのであった。この謀略を、関東軍の河本大作大佐らは政府や陸軍上層の許可を取らずに単独で実行した。

田中内閣の総辞職

 しかし国際的には日本の謀略であることが疑われ、政府・陸軍も河本大佐の単独犯行であると認めざるを得なくなり、ひそかに河本を退役させた。しかし、日本の不利益になるとして軍法会議(軍人に対する裁判)にかけることはしなかった。日本国内では「満州某重大事件」と言われたこの事件は真相を国民が知る機会は失われたが、ときの田中義一内閣の処置に不満を持った昭和天皇が直接首相を難詰したため、田中首相は総辞職するという結果となった。

謀略の代償 張学良の易幟

 また張作霖の息子の張学良は父の遺志を継いで満州軍閥を継承し、翌7月にはそれまで対立していた蔣介石との提携を表明した。張学良がそれまでの満州軍閥の旗に代えて中華民国の国旗である青天白日旗をかかげたことを「易幟」(えきし、旗を替えること)といい、中華民国(蔣介石の南京国民政府)による中国統一が完成したことを意味している。このように関東軍の謀略は何の効果もなく、かえって満州情勢を不利なものにする結果を招いた。関東軍はそのような状況の悪化を一気に覆すため、高級参謀の土肥原賢二や石原莞爾などが新たな謀略を進め、1931(昭和6)年に満州事変を引き起こし、中国への侵略を開始することとなる。

Episode 昭和天皇、首相を辞任させる

 張作霖爆殺事件の責任をとる形で田中義一内閣が総辞職した際に、昭和天皇の強い意思が働いていたことは間接的に知られていたが、1990年に発表された『昭和天皇独白録』によって生々しいその経緯が公表され、世間を驚かせた。そこでの昭和天皇の「独白」は次のようなものであった。
(引用)この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者(張作霖)を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、と云ふことであった。そして田中は・・・この事件に付いては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰するつもりだと云ったそうである。
 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だったそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終わった。
 そこで田中は再び私の処へやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたい云ふ事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。
 こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処によれば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云ふことになったと云ふのである。<寺崎英成『昭和天皇独白録』1991 文芸春秋 p.22 一部わかりやすいことば使いに改めた>
この昭和天皇自身の発言によって張作霖爆殺事件は、責任者河本が、軍法会議にかけられたら日本の謀略を全部ばらすと脅したため、田中内閣がうやむやに終わらせようとしたこと、それに対して昭和天皇が「前言とちがう」と田中首相に辞任を迫り、それをうけて田中内閣が総辞職したという経緯が明らかになった。昭和天皇はこの件を当時29歳だった「若気の至り」として反省し、この件があってからは、政府の説明に対して異議を挟むことは控えるようになったと云っている。この独白録は、戦後天皇の御用掛となった寺崎英成らが、東京裁判で天皇が戦争犯罪人として告発されるかも知れないことを恐れ、そのときのために天皇から聞き取りを行ったもので、多分に昭和天皇の自己弁護的な発言になっており、史料として扱う際には注意を要するとされているが、それにしても昭和天皇が内閣を総辞職させるほどの政治介入をしていたことは驚きである。

某重大事件

 このような国際的な大事件が、国民にはその事実も真相も知らされず、「某重大事件」として処理されてしまった。秘密にされた理由は、「謀略であることがバレると国益に反する」ぞ、という軍人の脅しに内閣が屈したためだ。気骨ある政治家であれば、国民に真相を知らしめるべきであったろう。その点、昭和天皇は一見、筋を通したようにも見える。しかし、首相を辞めさせたのでは意味がない。田中首相に、国民に知らせよ、少なくとも軍法会議にかけて責任者を処罰せよ、と迫るべきであったろう。軍の不正をただすのは、唯一の統帥権保持者である天皇の責任なのだから。
 2014年12月15日、特定秘密保護法が施行された。国家機密を守るという大義名分で国民の知る権利が制限されたとき、どのようなことが起きるかと云うことは、満州某重大事件の教訓だったはずなのだか・・・・・。再び「某重大事件」と言われるようなことが起きないことを願わずにはいられない。
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書籍案内

森島守人
『陰謀・暗殺・軍刀』
1950 岩波新書

筆者は当時外交官として領事館に勤務。関東軍や張作霖と折衝しており、その生々しい体験談。戦後の1950年に発表され、事件は広く知られることとなった。

島田俊彦
『関東軍』
初刊 1965 中公新書
再刊 2005 講談社学術文庫

寺崎英明
『昭和天皇独白録』
1991 文春文庫