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張学良

奉天軍閥の張作霖の子。中華民国への帰属を表明。西安事件を仕組む。

 張学良は、1928年6月4日に父の張作霖が日本の関東軍によって張作霖爆殺事件によって殺害され、さらに日本軍から脅迫を受けたが屈せず、12月29日、東三省(中国の奉天・吉林・黒竜江の三省。満州の別称。)に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に従うことを明らかにした。これを易幟(旗を変えること)といい、これによって中国は中華民国(蔣介石の南京国民政府)によって統一されることになった。

西安事件

 1931年、満州事変がおき日本の中国侵略が激しくなったが、初めは国民政府の蔣介石の方針に従い、共産党との戦いを優先し、日本の侵攻にほとんど抵抗しなかったため「不抵抗将軍」とあだ名された。しかし延安で共産党軍との戦いを続けるうち、中国人同士の殺し合いに疑問を感じ、中国共産党抗日民族統一戦線の考えに共鳴するようになり、1936年西安事件で蔣介石を監禁して、内戦を停止し共産党と協力して日本軍戦うことを同意させた。これによって翌年日中戦争が始まると国民党と共産党による第2次国共合作を成立させた。張学良は西安事件後、自ら国民政府の裁判を受けその拘束下に入り、戦後も国民政府と共に台湾に移って軟禁状態で生涯を送り、2001年に100歳で死去した。

Episode 張学良、日本の若者へのメッセージ

 1990年、NHKは台湾でひっそりと暮らしていた張学良のインタビューに成功、その模様を放映した。それまで、一切の取材を拒否していた張学良が口を開いたと言うことで世界中に大きな反響を呼んだ。その内容は『張学良の昭和史最後の証言』に詳しい。番組の最後に、張学良は「日本の若者に話したい」と次のような話をした。
(引用)私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。・・・・私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちををまずよく知ってください。そして過去のように武力に訴えることを考えてはいけません。(・・・孔子の言う「忠恕」の忠は国に対する忠誠でで、恕とは他人を許す心です。)日本は忠のほうはありますが、恕が少なすぎます。つまり思いやりが少ないのです。日本政府は外国に対しても、また国民に対しても、恕がないのです。・・・・私は日本の若者だけではなく、日本の責任ある立場の人にも、他人を思いやる気持ちを持ってほしいと願います。・・・私はもし昔、日本の若者とよりよく理解し合っていたならば、歴史はどうなっていたかとさえ考えさせられます。だから私は世界の若者に期待を抱いています。・・・」<NHK取材班『張学良昭和史最後の証言』1991 角川書店 p.241~、p.260>
 また同書に拠れば、インタビューの最後に張学良から取材陣に対し、「日本は何故東条のような戦犯を靖国神社に祭っているのか。靖国神社に祭られる人は英雄である。戦犯は日本国家の罪人ではないのか。彼らを祭っているのは、彼らを英雄と認めたからなのか。」と質問したという。そしてこの部分は放送ではカットされた。
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ノートの参照
第15章3節 ウ.国民党と共産党
書籍案内

NHK取材班
『張学良 昭和史最後の証言』
1991 角川書店