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ファン=ボイ=チャウ

20世紀初頭のベトナム民族運動指導者。トンズー運動を組織。

ファン=ボイ=チャウ
ファン=ボイ=チャウ 1867-1940『ヴェトナム亡国史』より
 漢字名では潘佩珠。ベトナムの民族運動の最も重要な指導者の一人。1904年に維新会を組織、日露戦争を機に日本に渡り、ドンズー運動を組織して日本の支援でフランツと戦おうとしたが日本政府の協力を得られず失敗した。やがて辛亥革命の影響を受けて民族独立と共和政国家建設に目的を転じてベトナム光復会を組織し、長く外地からベトナムの独立のための反仏活動を展開したが、1924年にフランス官憲に捕らえられ、ハノイに送られて終身禁固に処せられた。

維新会の設立

 ファン=ボイ=チャウはフランスが南部ベトナム南部コーチシナの西部三州を武力で植民地化した1867に、北部ベトナムで生まれた。祖国が消滅していく過程で成長したファン=ボイ=チャウは、自然に反仏運動に投じていった。清仏戦争の翌年、清がフランスのベトナム保護権を認めた1885年、阮朝の咸宜帝がユエを脱出し、反フランスの兵を挙げたが鎮圧されたが、このとき19歳だったファン=ボイ=チャウも蜂起に参加したが敗れてフランスに対する強い憎しみをもつようになった。その後勉学に励み、当時3年ごとに行われていた科挙に主席で合格した。しかし官につかず、阮朝を復活させる勤王運動に投じ、まず1904年、嘉隆帝(阮福暎)の血筋をひくクォンデ公を立て、維新会という党を結成し、武力蜂起の機会を探った。

日本への密航と東遊運動の開始

 彼等が独立のための武器を援助してくれそうな国として選んだのが、日露戦争でロシアと戦っている日本だった。当時は自由な渡航は認められていなかったので、上海経由で密航し、1905年4月に横浜に上陸、ちょうど日本に亡命していた中国の戊戌の変法の指導者梁啓超を訪ね、蜂起の相談をした。そのとき、ファン=ボイ=チャウがベトナムの現状を切々と訴えた内容を梁啓超が書き留めたという形で出版されたのが『ベトナム亡国史』である。梁啓超は日本政府に武器の援助を申し出ることは無謀なことだと諭し、それより独立のための人材育成が急務であると説いた。梁啓超の紹介で当時の日本の野党の指導者大隈重信犬養毅らと会うと、彼等の意見も梁啓超と同じだった。またファン=ボイ=チャウも日本の街を見て歩き、社会を観察して、直ちにベトナムが武力蜂起してもフランスに立ち向かうことは困難であり、まず日本にならって知識を向上させることが必要であると考えるようになった。そこでベトナム人青年の日本への留学を進めるドンズー運動(東遊運動)を始めることを決意して、ベトナムに帰った。

ドンズー運動の失敗

 ドンズー運動は1905~09年まで続いたが、日本政府が日仏協約に基づき、ベトナム人の国外追放に踏み切ったため活動をたたれた。ファン=ボイ=チャウも1909年、日本に大きな失望と幻滅を感じながら離日し、香港、バンコク、シンガポールなどで活動した(ベトナムには戻れなかった)。

辛亥革命の影響とベトナム光復会の組織

 1911年の辛亥革命の成功はファン=ボイ=チャウの運動にも大きな影響を与えた。運動の目的は皇帝の復権ではなく、民族の独立と民主国家の建設という明確な目的に転換し、それまでの維新会を解散してベトナム光復会を組織した。その主旨は「仏賊を駆逐し、ベトナムを回復して、共和制のベトナム民国をうちたてること」とされた。広東を拠点に党員をベトナムに派遣して植民地政府要員の殺害を狙ったが、フランス側の警戒も強くほとんど失敗、また辛亥革命も袁世凱が権力を奪い、孫文らが再び日本に亡命したこともあって運動は停滞、1914年にファン=ボイ=チャウ自身も捕らえられ、17年まで広州で獄中生活を送らなければならなかった。第一次世界大戦が起こると、ベトナム人もフランス軍に徴兵されて戦場に駆り出され、反仏の感情も強まっていた。ファン=ボイ=チャウはフランスの敗北を願い、獄中からドイツとの連携を模索したが、ドイツ敗北でそのもくろみは崩れた。

逮捕と監禁生活

 出獄してから一度日本を再訪したが、すでに日本は欧米帝国主義国家と同じアジアに対する抑圧側に立っていることを肌で感じ、得るところ無く広東に帰った。1920年には北京でソヴィエト代表団と接触したが社会主義革命への転換には至らなかった。24年にはベトナム光復会を中国国民党を範としたベトナム国民党に改組して民族主義の側面を強めた。またこの年、ソ連から帰国途中のホー=チ=ミンと広東で会談し意見を交換している。しかし翌年広東でフランス官憲に逮捕され、ハノイで裁判にかけられて終身禁固の判決を受け再び入獄した。ベトナム民衆は一斉にその釈放を要求、各地にデモが起こったのでフランス官憲もやむなく釈放措置をとったが、ユエの郊外で監禁生活を余儀なくされた。不自由な身のまま、1940年まで生き、9月の日本軍の北部仏印進駐が行われた直後の10月25日に死去した(75歳)。<潘佩珠『ヴェトナム亡国史』1966 東洋文庫 所収の「獄中記」/川本邦衛「潘佩珠小史」平凡社 などによる。>
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ノートの参照
第14章3節 カ.東南アジアでの民族運動の形成と挫折
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潘佩珠
『ヴェトナム亡国史』
1966 東洋文庫