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ホー=チ=ミン

1920年代からのベトナム独立運動を指導し、1960年代のベトナム戦争を勝利に導いた人物。

ホー=チ=ミン
Ho Chi Minh 1890?-1969
 ベトナムの独立運動の指導者であり、1960年代のベトナム戦争の時の北ベトナムを率いて勝利に導いたことから、現代のベトナムでも最も敬愛されている指導者。1911年、船乗りとしてヨーロッパに渡り、1919年のヴェルサイユ講和会議が開催されると、ベトナムのフランスからの自由を訴えた。パリでマルクス主義のグループに加わり、グエン=アイ=クォック(阮愛国)の名でフランス共産党の創立大会(1920年)に参加。モスクワからコミンテルンの指示によって広東に渡り、1925年広東でベトナム青年革命同志会を組織した。

ベトナム民主共和国の樹立

 1930年には中国でのベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改名。現在はベトナム労働党)の結成にかかわる。日本軍がベトナムに進駐した1941年に、30年ぶりにベトナムに戻り、ベトナム独立同盟(べトミン)を結成、日本の敗北とともに45年ベトナムの八月革命を成功させて社会主義政権を樹立、ベトナム民主共和国の大統領となった。

インドシナ戦争の勝利

 翌年、フランスがベトナム支配の回復をねらってバオダイを主席とする臨時政府(ベトナム共和国)を作るとそれに反発し、フランスとのインドシナ戦争に突入、54年フランス軍の拠点ディエンビエンフーを陥落させ勝利した。

ベトナム戦争

 さらに1960年からはアメリカに支援された南ベトナムとのベトナム戦争に突入した。1975年のサイゴン陥落によるベトナム戦争の終結を待たず、69年に死去した。南ベトナムの首都サイゴンは南北統一後、彼の名前を冠して、ホーチミン市と改称された。

Episode ホーおじさん

 ホー=チ=ミンは1890年5月19日に生まれたといが正確にはわからない。また30年間も海外で革命運動に従事して「放浪の革命家」と呼ばれ、その間、パリ、モスクワ、広東でいくつかの偽名を名乗っていた。本名はグエン=シン=クンといい、もっとも好んで使った偽名がグエン=アイ=クォック(阮愛国)だった。ホー=チ=ミンと言う名は、1942年に中国に潜入したときに使ったもの(中国名は胡志明)である。彼はフランスや中国で獄中生活を送り、何度か死亡説が流れるなど、ベトナム本国での活動歴は少なかったが、45年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言の時、始めて国民の前に姿を現し、その熱弁と親しみやすいあごひげを生やした風貌から「ホーおじさん」(ベトナム語では「バック・ホ」)と慕われるようになり、インドシナ戦争、ベトナム戦争を通じてベトナム人のリーダーを務めた革命家であった。<チャールズ・フェン『ホー・チ・ミン伝』上下 岩波新書 1973、小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書 1997 などによる>

Episode ホー=チ=ミンの二つの過ち

 ホー=チ=ミンはスターリンや毛沢東、金日成のような神格化を嫌い、過去の私生活をいっさい公表していない。しかしかえってそのことが彼を謎に包まれた“神様”のような存在にしてしまった。
(引用)いろいそささやかれている噂のなかで、とくにヴェトナム共産党が毛嫌いしているものに、女性関係がある。かつてホーチミンは自分が犯した二つの過ちを大衆に向かって率直に告白したことがある。一つは、煙草の喫い過ぎであり、もう一つは結婚しなかったことである。ヴェトナム共産党の公式解釈ではホーチミンは生涯独身で通し、すべての人生を革命と民衆解放に捧げた、とされている。だが中国で革命運動を行っていたとき、中国共産党の仲介で中国人女性と密かに結婚して子どもを二人もうけた、という噂が根強く残っている。・・・<坪井善明『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』1994 岩波新書 p.109>
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ノートの参照
第15章3節 オ.東南アジアでの民族運動の展開
書籍案内

チャールズ・フェン
『ホー・チ・ミン伝』
1973 岩波新書

坪井善明
『ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け』
1994 岩波新書