印刷 | 通常画面に戻る |

日仏協約

1907年、日本とフランスで締結された植民地支配の相互承認の取り決め。

日露戦争後の1905年第2次日韓協約で韓国を保護国化した日本は、台湾などを含めたアジアにおける権益の保護を図る必要から、同じくインドシナ植民地支配を安定化させようとするフランスとの利害の一致を見いだした。そこで1907年、日本の台湾・満州南部・韓国に対する、フランスのインドシナにたいする、それぞれの権益を相互に承認するに日仏協約を締結した。なお、秘密交換公文で日本の福建省に対する権益も承認された。

フランスの意図

 当時、ベトナム・ラオス・カンボジアのフランス領インドシナ連邦を支配し、さらに中国分割以来、中国南部に進出していたフランスは、これらのアジアにおける権益に対して、ドイツの進出は大きな脅威となっていた。フランスは、露仏同盟(1891・94に成立)・英仏協商(1904年成立)をさらに強化するため、イギリスとロシアの提携を強く望んでいた。そこで日英同盟(1902年)でイギリスと同盟関係にある日本と1907年6月に日仏協約を締結し、さらに日本に働きかけて7月にロシアとの日露協約(第1回)を成立させた。日本がロシアと提携したためアジアにおけるロシアの脅威が去ったと判断したイギリスは、同年8月、英露協商に調印した。

日本にとっての意味

 日本はアメリカとの間で、日露戦争中の1905年の桂=タフト協定(日本の韓国、アメリカのフィリピンにおける権益を相互承認)を結んでおり、日英同盟・日仏協約・日露協約などとともに帝国主義列強による世界分割協定の一環であったと言える。日露戦争がロシアの脅威から日本強いてはアジアを守る戦いだったというような議論は成り立たないことは明らかである。むしろアジア解放を抑圧する側に廻ってしまったことは、日仏協約の成立によってフランスの要請を受けざるを得なくなり、ベトナムの民族運動への支援を停止したことにもあきらかである。

ベトナム民族運動への打撃

 具体的には日仏協約が成立することによって、フランスはドンズー運動などのベトナムの日本における反仏活動の取り締まりを要求できることとなり、日本政府もそれに応えてベトナム人の国外退去を実行した。これによってベトナムのファン=ボイ=チャウが期待した日本の支援は実現せず、その失望は大きかった。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第14章3節 イ.日露対立と列強